「セクシィ・ギャルの大研究」 上野千鶴子著  岩波現代文庫 感想

セクシィ・ギャルの大研究
女の読み方・読まれ方・読ませ方
上野千鶴子著  岩波現代文庫

数週間前に買って、枕元に置きながらぼちぼち読んで、やっと読み終えた。元の本は1982年発行のカッパブックス上野千鶴子としては初の出版であったようで、帯にも、解説にも「処女喪失作」としつこいぐらいに繰り返している。
そうか、1982年か。ここでも30年の附合があったのだった。1982年は小泉今日子のデビューした年、私の就職した年、そして、上野千鶴子が「処女喪失作」出版した年であったのだ。ま、感慨を覚えているのは僕だけだけど。
ちなみに上野千鶴子は1948年生まれ、と言うことは今年64才で、現在の肩書きは東京大学名誉教授と言うことらしい。
本書ははじめの発表媒体が一般向けの、柔らかめの新書であったカッパブックスということもあって、中身もあまりややこしい議論には立ち入らず、粘り強く論理を追うと言うより、読みやすさを優先して結論を幾つか並べたようなところも感じられて、正直途中でちょっと飽きたのだが、しかし全体としてはなかなか面白い本であった。
後書きで著者自身が、はじめはErving Goffmanと言う学者の、Gender Addvertisements と言う本を翻訳しようと考えたがアメリカの事情と日本では合わない点があり、止めたと書いている。そこで、ゴフマンの方法論を用いて日本の広告を題材にリサーチした成果(の一つの一般向けのもの)が本書と言うことらしい。ゴフマンを下敷きにしているのだな、と言うことはしばしば引用されていることもあり、読みながら感じたことでもあった。
人間がコミュニケーションする手段は言語だけではなく、表情や、仕草や、お互いの位置取りや、服装や、髪型や、身体的接触などで無意識、または意識的に行われていると言うことが学問的に次第に明らかにされてきた成果を基盤に、男女が現れる広告の上でそれがどのようなメッセージとして発せられているか、と言うことを実例を示しながら説いていく。もう一つ決定的なのは、この世は男が権力を握り女は低位なものとされていると言う認識と、以前感想をアップした小倉千加子と同様の、女はくだもの男はけだものという性的関係性の認識がベースにあると言うことである。
 どういう解読もああ、そうか、という僕としては納得できるものがある。特に最近は小泉今日子のグラビア写真やプロモーションビデオを見る機会が多いので(苦笑)、あのプロフェッショナルなポーズは、こういう意図が隠されていたのだな、と思い当たる事多数。キョンキョンがCMの女王として長く君臨したのは、そういう意図を上手に伝達するメディアとしての機能が優れていたと言う点が一つあると思う。
 話がちょっとずれたけれど、ポケットに手を突っ込む仕草の解読、鏡の意味、など我が身を振り返っても参考になる点多し。
 一方最初に書いたとおり、本来の膨大な研究を一般向けにしたためか、あるいは女性学的認識からの政治性からか、ちょっと論旨が一貫しない、あるいは飛躍しているように感じられる部分があるように感じた。
また見出しの付け方はやや浅薄。編集者のせいだろうけど。
この本に現れるものとは別のものかもしれないが、上野千鶴子の一般的エッセイなどでしばしば感じられる「政治性」は、むしろ「女らしい」ものに感じられてしまうのだけれどそういう読みは浅薄すぎるのだろうか。