赤い追憶 阿刀田高著 集英社文庫

 阿刀田高の短編解説エッセイが楽しかったので、短編集を読んでみた。結論から言うと、私の好みからややずれるかもしれない。
   エッセイの中で、著者は読者を読書の謎解きの9合目まで連れて行くのが自分の流儀だと語っている。チェーホフは6合目ぐらいまで、とも。つまり、チェーホフははっきりとした落ち、結末が必ずしもなくて、読者に任せる部分が大きいわけだ。
 著者は確かに頂上近くまで連れて行ってくれるのだが、それが私の読み応えに資するかと言えば、そうでもないと感じられるのが難しいところだ。自分の好みは7合目か8合目、さらに外国の風景や雰囲気、といったところなのかもしれない。ホラー的な怖さも私の好みとは違うのかもしれない。
 エッセイに戻ってもう一度著者の文体を味わいたい。

 

 

海外短編のテクニック 阿刀田高著 集英社新書

短編小説の名手と言われ、啓蒙的なエッセイでも有名な阿刀田高が、海外短編のプロット、トリックなど、その魅力について語った本。 面白かった。

扱われる作家は以下の通り。
モーパッサン
サマセット・モーム
チェーホフ
O・ヘンリー
スレッサー
メリメ
カフカ
ヘミングウェイ
ラヒリ

 メリメとラヒリは全く未読であったが、それ以外はかなり読んでいた。
  作家の略歴と、代表的な作品の分析と批評が記されている。短編小説において、モーパッサン、チェーホフは、いわば名作中の名作ともいわれる作品をものしているので、それらに対する著者の考えが分かって楽しかった。
 サマセット・モームはそのエッセイで落ちがある短編は悪くないといい、モーパッサンの「首飾り」を名作として賞揚している。そして、短編集 コスモポリタンズ のなかの「物知り博士」は、その本歌取りだと認めている。ちなみに、物知り博士は私の好きな短編の一つである。モームの皮肉な視線とともに、人間観察の温かさが感じられる。
 おっと、首飾りの話であった。私も首飾りは名作だと思っていたが、なぜかと改めて考えると最後の1行で決まるどんでん返しの鮮やかさに尽きる。なるほど、私も鮮やかなどんでん返しが好きなんだなあ。
 一方で、著者は、モーパッサンなら「宝石」のほうがいいという。確かにこちらも面白い。より現実にありそうな話、落差は小さいが怖い話である。

 著者は作者と作品について目配りよく紹介しながら、一方で自分の読みを気取らずに語ってくれる。おそらく、この本の、そしてそのほかのエッセイ等でも、最大の魅力は該博な知識と読書量をもとにしながらも、気取らず打ち解けて話しかけてくれるような、この文体だろう。ついつい、読み進めてしまうのだよね。

 ラヒリは読んでみようか、という気になったし、スレッサーは改めて未読作を探してみたいと思った。  良い本でした。

 

 

 

一寸先は闇  佐藤優 五木寛之対談録  幻冬舎新書

先に、「国難のインテリジェンス」にて対談していた二人が改めて新書一冊分対談したもの。大変面白く読んだ。
 印象に残ったのは、やはり戦前の空気を知る世代である五木寛之の数々の発言。
 当時の一般大衆は戦争に負けるなんて思ってなかった、日本の戦闘機が大好きだった、かつては歌というものの働きがとても大きかった、などなど。 
 あるいは、戦中と戦後に、インテリはどのような態度をとるべきであったかということについて、時にうなされるほど悩み、考えるという。 現代の倫理的立場から戦争協力をしたインテリを批判するのは簡単だが、当時の空気を知る五木氏は自分だったらと、真剣に考え込んでしまうのだと思う。
(これは、私も興味を持っている問題であって、いつか、小林秀雄の動きをじっくり追ってみることにより、考えてみたいと思っている。)
 現代の常識からは見えなくなっている数々の証言を読み、将来への射程を修正するためにも価値のある一冊。

 

 

 

「振り仮名」があれば、学力は上がるのか 松本 大著 ポプラ新書

松本 大氏は、ビジネスマンなら知っているであろう、マネックス証券の創業者で、現マネックスグループ取締役会議長とのことである。本業とは関係ないのだが、かねて印刷物におけるルビの重要性を痛感され、ルビが現代日本において減少し、その重要性が認識されていないことを深く憂えて、ルビ財団を設立し、啓蒙活動に励まれているそうだ。
 有隣堂のいわゆる「ユウセカ」(略称)というyoutube番組に出演されて強くルビの必要性を訴えられていて、初めてその主張を知った。その出演をきっかけに出版されたのが本書だそうだ。

著者の主張を簡単に纏めると、以下の通りと思う。
 文章は音が分かれば、読んでいくことができる。意味の分からない言葉は読み方(音)が分かれば辞書などで調べることができる。したがって、漢字の壁が大きい子供や外国人に対して総ルビを振ることにより、知的門戸を大きく開くことができ、子供についていえば知的興味に対して読めないことによる制限をなくし、能力を高めることができる。
 かつて、江戸時代など、振り仮名によって日本人の識字能力は高まり、明治時代から戦前に至るまでルビは大いに活用された。しかし、戦後は、占領政策の影響もあり、ルビは有害なものとされ、印刷の不便もあり、衰退していった。
 タイパ、コスパなどが言われ、キャッチフレーズ的な文章によって選挙運動なども行われる中、国語に対する理解力を高め、ひいては将来の国民の知的能力を高め、国力を高めるためにもルビを普及させ、知的素材へのアクセスの障害を取り去るべきである。
 
感想
一言でいうと賛成です。自分自身、結構いい加減な読みをしている漢字がたくさんあると思うので、ルビ付きの文章が増えるのはいいことだと思う。
印象に残った事例として。。
江戸時代、明治時代の事例が出ているが、1874年に出されたという「海上衝突予防規則」の事例には感心した。縦書きで右側には「かいじょうしょうとつよぼうきそく」と読み方が振られ、左側には、「うみのうへつきあたりようじんのきまり」とその意味が和語で振られていたのだという。素晴らしい。漢字が読めない漁師などへの配慮だろうとのことだが、言葉のセンスも感じられるし、江戸時代から明治に変わっていく時代の息吹すら感じられる。
 これを読んだとき、左側の意味をあらわす振り仮名は、現代で濫用されている外国語にもつけたらどうかと思った。
 サステナビリティ、レジリエンス、ダイバーシティ、コンプライアンス、アカウンタビリティ、スキーム、などなど枚挙にいとまがない。ビジネスモデルを「もうけかた」と言い換えている人がいたけれど、なるほどそうだよね。そういう和語の振り仮名をつけてほしいものだ。

 敗戦の影響も大きかったのだ、と改めて思った。ルビのみならず、漢字制限、外来語の跋扈、志賀直哉の日本語をフランス語に変えたらという論、新仮名遣いへの変更など、敗戦は言葉の伝統も震撼させ、いまだにその影響が続いているといえるだろう。旧仮名遣いを強く主張し続けた福田恒存が「戦争に負けるとはこういうことか」と言ったのがしみじみ思い出されもする。
 
 一つはっきりしないのは、著者もルビの普及にあてにしているシステムと、漱石や鏡花も振っていた自由なルビの関係だ。漫画や歌詞のルビにしろいわばつけ放題であって、私も面白いと思うし、著者も肯定的だと思う。一方で、システムは統制的なものだ。このバランスを著者はどう考えているのであろうか。

 繰り返しになるが、私はルビに肯定的だ。発音をいい加減に覚えている言葉がたくさんある。言葉の発音には幅があるわけだが、例えば某政治家が読み間違えて話題となった「未曾有」について、自信をもってイントネーションと振り仮名と実際の発音をいえるかと言ったら、100%ではないのが本音である。恥ずかしいけれど。

もちろん、美的感覚を尊び、ルビを必要としない文書は存在してかまわないが。
 というわけで、ルビ運動、応援しております。

ps.  題名は、編集者が考えたのだろうか。学力を持ってきたのは父親母親に訴求したかったのかもしれないが、かえって本の射程を狭めていないかなあとちょっと思いました。

 

 


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国難のインテリジェンス  佐藤優著  新潮新書

 2020年から2022年にかけて、週刊新潮誌上で行われた対談をまとめたもの。全14人、従って一人一人との話はさほど長くない。
佐藤氏のいわば専門分野であるロシア、国際外交、あるいはキリスト教、マルクシズムに偏ることなく様々な分野から対談相手が選ばれ大変興味深かった。
まず、佐藤氏がどんな相手もそらさずお茶を濁さず融和的に話を進めている点に感心した。さすが「人たらしの極意」を出版するだけのことはある。
内容はどの対談も興味深い。AIがむやみに導入される中でシンギュラリティはないと断言する(その点は賛成だ)新井紀子、現状の経済に対して劇的に態度を変えた中谷巌(一口で言えば、新自由主義に対して、賛成から反対に回った)、人口減少(私もこれが最も総合的にロードマップを示さなければならない喫緊の課題と考える)が進む中で戦略的に減少に対応しなければいけないという河合雅司など、考えるポイント満載である。
 読み捨てるのではなく、知の案内書として本棚においておく価値ありと判定しました。

出世と恋愛  斎藤美奈子著  講談社現代新書

まず、この本で扱っている小説を以下に列記する。
夏目漱石    三四郎
森鴎外     青年
田山花袋    田舎教師
武者小路実篤  友情
島崎藤村    桜の実の熟する時
細井和喜蔵   奴隷
徳富蘆花    不如帰
尾崎紅葉    金色夜叉
伊藤左千夫   野菊の墓
有島武郎    或る女
菊池寛     真珠婦人
宮本百合子   伸子

二葉亭四迷   浮雲
野上弥生子   真知子
堀辰雄     風立ちぬ
山本有三    路傍の石

 「伸子」までが項目を立てて論じられている小説であり、以下は項目はたっていないが、評されている作品である。

まず第一に私自身の反省を述べなくてはならないなあ。本好き、本を読んでいるほう、と思っていた私であるが、上記のうち読み通したのは三四郎だけである。青年は数年前に買って積読状態。風立ちぬは若い時に一度読み始めて、あの独特の文体がだめでやめてしまった。金色夜叉もちょっと読んで、やめてしまったなあ。浮雲も一度買った気はするが。。
 こうなると、私は読書家とは言えない、という最近ひしひしと感じる自己認識の修正を改めて再確認した次第。素人なのだから、全部読んでいなければいけないわけではないだろうが(特に細井和喜蔵とか)、さすがに1冊ではね。

 気を取り直して本書の感想文を書いておく。
明治以降、ほぼ戦前までの日本における代表的な青春恋愛小説を取り扱いながら、時代背景、歴史的進展と絡ませながら論じている。著者も意識しているだろうが、ある程度図式的に整理しており、分かりやすく、読みやすく、面白かった。
 本書で青春恋愛小説のプロトタイプとされる三四郎で示される三つの世界、を示す。
1.母や知り合いが住む遠い故郷。

懐かしく温かい世界だが、すでに違和感を感じてい る世界でもある。そこに居続けるわけにはいかないが、出世した後で顔を見せれば、親も喜ぶ世界である。

2.学者あるいは知識人の世界。

 秀才を自負する若者があこがれる世界だが、案外辛気臭い。人生をかけるに値するか、まだ自信が持てない。

3.華やかな都会の文化、女性がいてキラキラした世界

  何しろ都会は様々な人がいて、女性がいて、歓楽街があり、楽しい世界であり、大いに惹かれる世界である。恋愛して、素敵なパートナーを得なければとも思っている。

 ここに青年の古典的な行動パターンが発動する要素があるわけだ。
1.田舎の秀才が立身出世を夢見て、都会に旅立つ。
2.の世界にあこがれ、関係は持ちつつももう一つ煮え切らず、3.の世界で社会勉強と称して、ウロチョロする。できれば女の子をひっかけたい。しかし、田舎育ちの主人公は、女性へのアプローチの方法も知らず、おたおたするうちに逃げられてしまう。

 なんだ、三四郎はそういう話だったのだな。ストレイシープどころではないな。確かに著者の言う通り、美禰子は三四郎が特に好きではないように読める。
 青年も、田舎教師も、その変奏である。なるほど、経済的条件などで、都会に出られず悶々としたり、工場労働者となったり、ということはあるが、都会に出る、出世を夢見る、でも自分勝手で頭でっかちで女性には振られる、が普遍的パターンというわけだ。
 著者の男性主人公に対する視線は厳しい。頓珍漢で、自分勝手で、女性に対しては上から目線で、自分では誠実なつもりで、しかもいざ告白など度胸がいるときには腰砕けで、逃げちゃったりする。本書のあちこちで罵倒されることしきり。
 一方で、社会の変化による行動変容が当然、恋愛に対する考え方にも影響し、若い男女の行動も変わってくる。社会的背景により、そこで右往左往する男女の心理と感情も変わってくるわけで、時代思潮の変化と作品に現れる人物の思考と行動の変化を結び付けているところが、著者らしい着眼点であり、私が最も面白いと思ったところである。

 読書ガイドブックとして良質。まずは、青年から手を付けていこうかな。戦争と平和のあとになるかな。      

 

 

 

若きウェルテルの悩み   ゲーテ作  新潮文庫

 魔の山を読み終えて次は戦争と平和と決めてあったが、何しろ長いから、短めのものを一つ読もうと思って選んだ作品。これも名作の誉れ高く読むべきリスト上位でありながら読んでいなかった若きゲーテの作品だ。
叙述のスタイル
 書簡体、すなわち、ほとんどがウェルテル本人の独白で書かれるのだが、後半、書簡を整理し、この本を作成したものという体で筆者の視点も現れる。それがなかなか堂にいっていて、うまさを感じさせるが、この時代にどこまで一般化した手法だったのだろう。現代的に言えば視点の揺れが感じられるが、ゲーテはうまく、つまり小説として破綻することなく、処理している。

 ウェルテルは上流階級の若者だが、まだ仕事も決まらず、家から離れて遊学中というところだ。ロッテと出会い、一目で虜になってしまう。ロッテも才気煥発のウェルテルを憎からず思う。しかし、彼女にはアルベルトという婚約者がいて、やがてアルベルトが現れると彼もウェルテルを友人として遇してくれるものの、もはやウェルテルにはロッテとの関係に喜びは感じられない。常に、婚約者としてのアルベルトが、彼自身がというよりウェルテルの意識の上、倫理観の上で立ちはだかり、友人としてふるまわなければならないからだ。苦しみしか感じられないウェルテルは、必然的に、二人の元を去ることとなり、就職する。
 しかし、自尊心が強く上役とうまくやれない彼は、自分が有能で上役が下劣で馬鹿なのだと疑わないが、結局、社交的失敗がもとで辞職する。あちこちを旅するが結局はすでに結婚したロッテとアルベルトが住む街に戻ってくる。
二人は、ウェルテルを友人として遇してくれるが、しかし、彼には苦しみしかない。
 
 絵にかいたような見事な失恋をしていることは、明敏なウェルテルはよく自覚しているのに、かれは、その苦しい檻から出られなくなってしまうのである。通俗的かもしれないが常識的な判断をすれば、ロッテをあきらめて、彼らと離れた土地に行き、そこで新しい人生を始めるべきであった。実際就職したときには、他の女性との付き合いも少しばかり述べられている。
 ついには、ロッテを得られないなら、死んでしまうほうが良いとウェルテルは考えるようになる。あえて言えば、ストーカーの心理と同じである。実際、結末近く、ロッテとアルベルトを殺そうかとも考えた、と告白している。一方で明敏な自己分析も自己統制もできているけれど。
 ついには、自分の身辺を整理したうえで、ウェルテルはアルベルトから拳銃を借りて自殺する。拳銃を発射したところで終わるのかと思ったら、ゲーテはウェルテルを即死させず、死ぬまでに時間をとったうえで、葬式まで描く。これはリアリズムか。主人公に対する一種の意地悪なのか。あるいは自己自身への処罰なのか。
 後年、ゲーテはこの作品について、「あの時代の厭世という病的状態から生まれた」と言っているということだが、この言葉にはすでに若さを失なったからこその冷静な距離感が感じられる。一方で、この作品の手柄といえば、通俗道徳の面からは決して認めることのできないウェルテルではあるが、病的に高まった恋愛感情の高みから見える心とその動きをまさにその病的な高みから克明に描き得たことだろうと考える。すでに人生の晩期にある私はウェルテルに共感はできないものの、しばし嫌悪を覚えてしまう若さと恋愛感情の正面からの描写にゲーテの芸術家としての天才を感じざるを得ない。

 蛇足ながら付け加えれば、芸術家ゲーテは真に自己を投影しえた作品を書くことにより、自分は一歩先に進んでいくのである。芸術家の無意識の姦計と言ったら言い過ぎだろうか。ウェルテルを殺すことによってゲーテは生き延びた。これは芸術家の一つの形ではあるだろう。