しばらく前に「出世と恋愛」を読み、すでにあげた感想文に記した通り面白かったのであるが、本棚を見たら、同じ斎藤氏の「日本の同時代小説」があるではないか。すっかり忘れていた。一度通読したはずであるが、改めて読み終えたので感想を記す。
この本は、明治以降の日本文学を俯瞰するうえで、代表的なものとして中村光夫の「日本の近代小説」、「日本の現代小説」(岩波新書)があるのだが、カバーしているのが1960年代までであるので、それ以降現在(2018年)までを同じ岩波新書のシリーズのような体裁でとらえてみようという野心的な本である。
出世と恋愛と同様、まずは、ブックガイドとして使っていきたいと思った。また、私は最近の本は読んでいないなあ、と痛感。「蹴りたい背中」は買ったのに読んでいないし。なぜだろうと考えると、現代の作家を読んでいく場合、その作家なりのタッチ、世界像を掴むまでがかったるいということがあるのかもしれない。そのうえで、新しい作品は成功作に当たるわけではないし、とするとある作家を理解するために何作かは読まなければならず、読書に膨大な時間を費やさなくてはならない。しかもそのかなりの部分はあまり面白くない、というネガティブな思いが先に立つ。そこで名作、安心できる古典、好みの作品に偏った読書ということになる。つまらないと思っても、勉強にはなった、読書のレパートリーを増やすことができたという自己満足は得られるわけであるし。
いやな奴だなあ。やはり、これでは読書家とは言えないだろうなあ。これは本好きというより、お勉強としての読書だよなあ。本は好きだけどさ。
勤め人であった私にとって仕方のないことであったし、年金生活者となった今も、ほかにもやりたいことがあるわけで、楽しみとして読むなら、やむを得ないと考えるが、素人なりに現代の文学の射程を掴みたいと考えるなら、あまりに偏向していると言わざるを得ないだろう。もう少し、計画的に本を読み、また「同時代小説」も読んでみなくてはと思った次第。どこまでできるかはともかく。
時代の変遷とその作品への反映、そしてその評価は大変興味深い。
「インストール」当たりの作品について、人物がキャラクターをコスプレのように使い分けるようになった、とあるので、ではなぜそのような人物が現れてきたのか、について、私の仮説を述べる。
戦後の経済発展による工業化の進展により、共同体的社会構造が弱まり、日本社会は会社、役所などの職場を単位とした集団によって農村的社会から構造が変容していった。村社会的・家的社会構造は意識の中に残存しながらも、実態は核家族化、経済的理由からの稼ぎ手の単身赴任、仕事のための地縁とは切り離された頻繁な転居など、資本主義経済への適応が進んでいった。
すると、当然、私たちは土地に縛られる度合い、共同体社会・親類縁者に縛られる度合いが弱くなり、社会の様々なレイヤーにおける自己の態度も都合よく変更することが可能になっていく。例えば、会社、家庭、趣味の会、ですべて異なったキャラクターを演ずることは珍しいことではないだろう。
そのような実態があって、建前としては共同体的・家的・地域社会的道徳・縛りが何やかやと言われながらも実態が薄らいでいくなかで育った若い人たちは、いくつものキャラクターを演ずることに抵抗が少なく、そのような精神のありようが文学の上に表出した結果が、著者が指摘するインストールなどの作品の人物なのではないか。
また、著者は、2000年代の日本社会の変容とそれに対する文学の対応について語っている。何より、東日本大震災と原発事故、少子高齢化の進行などの中で文学はどのような作品を生み出したか。様々に分析しつつ、一口で言えば、批判的である。例えば以下の引用に説得力があるとする。
ディストピア小説が頻出したことについて「それは責任を引き受ける、覚悟を決めて自分たちで対処するという当事者意識の欠如に見える。主体性を削ぎ、無力感を助長するだけに見える。大事な本質を見ない、それに取り組まないで周辺をぐるぐる回ることですませる悪癖にも」(東日本第震災文学論の編者のひとり飯田一史の文章であるそうです)
詳細は省くが、純文学に連綿と脈打つヘタレ知識人のふるまいが、一つの要素であると筆者は説く。
資本主義経済に適応した文学ならば、資本主義的経済循環の中で安全に消費される文学となることが、限界なのではないか。というのが私の仮説。それはそうでありながら、そこで細かく様々な事象を探求し、一歩進んでいけるようにというのは、結局芸なのでは。
ヘタレとはそもそも、明治初期からの富国強兵資本主義化の中での立身出世主義に背を向けて、もしくは落後したからこその立場であり、だからこそ、理念の純粋な輸入・醸成による文壇の形成と実社会への批判が可能であった。(このあたり中村光夫の本によります)しかし、今となっては、文壇は形骸化・雲散霧消しているとよく言われることで、作家はネガティブな状況に自己を置きながらも、社会を正当な論理と倫理観で批判することが難しくなっているのかもしれない。
となれば、一足飛びに言うのは危険だが、文筆家に限らず、逃れられない資本主義社会の経済構造に、利用されつつ利用するほかないのでは。誰もが程度の差こそあれそうしているのかもしれないが。いや、こんな言い方は安易なのに違いない。しかし、筆者がヘタレてばかりいないで一矢報いよ(意訳)と言っている声にこたえるにはやられつつやる、こんな方法しかないのではと考えた。芸を超えて、これを行うのは離れ業なのかもしれない。
ああ、ブックガイドとしてよい本だから、これからも折に触れ参照したいというぐらいの短い文にするつもりが、長くなった。
整理されていないが、これで終わりとする。




