感想文 「教育は何を評価してきたのか」  本田由紀著  岩波新書

11月15日に感想をアップした「日本ってどんな国」を著した本田由紀教授の本である。
 冒頭、上記の著書と同じように、社会学的な手法で日本人のスキル、意識についての分析が述べられる。
  それによれば、日本人は、読解力、数学、科学と言った分野だけでなく、他者との協力による問題解決と言ったより柔軟な対応が求められるスキルについても世界各国のなかで高い水準にある。(今月発表された最新のOECDの学力テスト結果でも引き続き高いランクを維持したようだ)
 それ自体は喜ばしい事に思えるが、日本人の高い能力は残念ながら高い水準の賃金によって報われてはいない。GDPとの関係を見ても、日本は、スキルの高さが国民経済の豊かさを生み出しているとはいいにくい。
 結論として、著者によれば、日本では、高い一般的スキルがありながら、それが経済的活力や社会の平等化にもつながっておらず、一方で人々の自己否定や、不安の度合いが高い、という異常さがある。
 これらは、あまりに「逆機能的」であるためにその原因が解明されるべきであるが、著者の回答は次のようなものである。
 日本における人間の望ましさに関する考え方は、歴史的な軌跡のなかで「垂直的序列化」と「水平的画一化」の組み合わせを特徴とする独特な構造を展開・強化・深化してきた。
 私なりの雑なまとめであるが、前者は能力(学力、生きる力、人間力)による序列化、後者は、態度や資質を不可分な言葉として、特定の振る舞い方や考え方を全体に要請する圧力の事とのことである。
 本書は、そのような二つの軸が戦後の日本の教育行政、あるいは政治の場においてどのように深化発展していったかを様々な資料に基づいて実証的に丹念に跡づけていったものであり、さらに著者なりの改善策を記したものである。
 新書としては、かなり学術的なものにも思えて、私にはなかなか難解であった。
 一方で、著者が案出した上記の二つのタームについては、深く頷くところがあった。
 以下それについて記しておきたい。

 1.垂直的序列化は、偏差値を考えれば分かりやすい。しかし、単に学科テストをやって、点数を偏差値化する、と言うだけではなく、それが学力という名のもとに、あたかも人間に内在する全的な能力のように扱われてくるモメントが発生するのは、私も実感しているところだ。偏差値の弊害は使用されはじめた初期から言われていることだが、何しろ便利なので使い続けられ、その応用範囲は拡がり続けている。
 さらに、著者は、単に学力にとどまらず、その射程が生きる力、人間力、などという言葉で括られるものまで拡げられ、深化していると分析している。(それを、単なるメリトクラシーと区別してハイパーメリトクラシーと呼んでいる)以前はテストの点で並べられているだけだったのが、「人間力」で並べられる訳である。
 では、人間力とは何か。深く考えるのは無意味である。労働経済学者の濱口桂一郎は、その著書で、上司が「人間力」などというどうとでもなる価値基準で部下を評価する馬鹿らしさを指摘している。長年サラリーマンを続け、評価する側とされる側両方を経験した私の実感としても、「人間力」などというものを持ち出したら、客観的な評価基準にはなり得ず、上司が評価という形を付けるだけの道具にしかならないと考える。
 もう一つ。少し前、高名な女優である長澤まさみ氏が、珍しくバラエティ番組に出て、どんな男性が好みかと問われ、「人間力のある人」と答えたそうだ。
 これは、立場と場を心得た頭の良い回答である。そして、ここには人間力という言葉の特質がよく現れている。聞く側が中身をどうとでも考えられる言葉であるし、発言した側がどういう内容も盛り込める、どういう言い逃れもできる言葉なのだ。と言う事は、実は内容がないということだ。美男なのか、背が高いのか、高学歴なのか、金持ちなのか、性格が明るいのか、実際彼女がどんな人が好みなのか知らないが、具体性は一切なく、当たり障りのない意味不明の答ができるわけだ。本心を明かすことのリスクがある女優の、バラエティ番組での答なら満点だ。
 しかし、それが教育の場や、企業の評価の場に持ち込まれたらどうなるか。評価する側の恣意的な判断が暴力的に行われることが目に見えている。なぜなら、どんな内容も盛り込める言葉だからだ。世情を騒がせた電通事件において、過酷な労働条件のもと自殺に追い込まれた女性社員が、上司から「女子力」がないと言われていたことが思い起こされる。言葉は違うが同工異曲である。
 能力主義は普通、メリトクラシーの訳語として使われている。しかし、著者は日本的な能力主義は、評価基準のはっきりした欧米流のメリトクラシーとは異なるとしている。その点は同意する。元々組織の中で無理難題を何とかこなす社員が優れた社員として評価される度合いが高い組織風土、社会風土であるから、客観的な基準は馴染みにくいのだ。逆に言えば、誰に何を命令しようが、なんとか頑張って力を発揮しようとするメンタリティが日本の会社の強みでもあった。
 ところが、様々な職種において高度な知識とスキルが必要となった現代において、専門教育のない素人の頑張りではパフォーマンスが低く、また企業側も激しい競争のなかで社員を家族的に囲み込めなくなった事によって、社員のモチベーション低下(はやりのエンゲージメントと言う言葉を使っても良いが)を招いており、日本的な組織風土はその強みが希薄化し続けている、と私は考える。
 寄り道になるが、先日感想をアップしたウォーラーステインの本の一節を思い出した。ウォーラーステインは、資本主義の発達と共にメリトクラシーが言われるようになったが、人間の能力をきちんと測ることなどできないし、すべての労働者について適用することもないから、要するに貴族主義だ、と喝破している。本書とは分析対象とされているもの、手法、時間軸も違うが、メリトクラシーを考える上で、頭に入れておいてよい言葉だろう。

2.水平的画一化についてやはり私の体験を記しておく。
 数年前、勤め先で新人女子社員の受け入れ面談を行った。入社式直後に三名の大学出たての女子社員と会議室で向かい合った私は驚いた。三人が、色合いも、質感も、デザインも同じ服装をしていたからだ。
 私は三人が同じ大学か、知り合いか、あるいは内定者懇談会などで顔見知りになって示し合わせたのかと考えた。ところが、確認すると三人は大学も異なり、全く初対面であった。その三人が同じ服を着ていたなら、他の新人達も同様だったのだろう。
 まさに、水平的画一化のなせる技である。
 恐ろしいのは、同じ服を着なければならないなどと誰も指示していないし、ルールもないことである。にも拘わらずここまで強く、見えない基準に揃えるという圧力が掛かっているのだとまざまざと感じた出来事であった。

 この二つのモメント、特に近年深化しているハイパーメリトクラシーや、資質、態度への水平的画一化は、いったい誰にとって好ましいものなのか。
 私が感じるのは、管理者や上位者、相対的権力者にとって都合の良い統制のためのコストの掛からない制度、メンタリティがこれらのモメントによって強化され続けていると言う事だ。それが、「逆機能的」である事がこれほど明らかになっているのに、改善が遅々として進まない事の理由の一つであると思う。
 今、この圧力を受けて汲々としている人も、耐え抜いて、やがて管理する側の「オヤジ」になれば(*オヤジは権力者の謂いであって男とは限らない。コピーライト上野千鶴子) 喜々として権力を振るうのだろう。そのようなネガティブな循環が強化され続けているとすれば、改善への抵抗は凄まじいものになるのだろう。
 沈み続けているとは言え、曲がりなりにも文明国の一角を占め、未だに技術的にも経済的にもそれなりの存在感を持っているはずの日本が、実はこのようなネガティブな循環・深化に支えられているなら、暗澹とせざるを得ない。
 現代日本社会の負の構造とそのモメントについて、仮説であるとしても、理解のための明快な補助線を得られた本であった。