「人新世の「資本論」」 斎藤幸平著 集英社新書  感想文

新書としては、注を含めて375ページある、なかなか分厚い本である。
加えて固い内容にもかかわらずよく売れているらしい。私は知人がfacebookで紹介しているのを見て興味を持ち読んで見た。
感想を網羅的に書こうとすると膨大になるし、「武器としての資本論」の感想文でも書いたようにそもそも「資本論」を論ずるだけの力はないので、この本を読んで私個人が惹かれた点、気になった点に絞って書いていこうと思う。

1.point of no return
私たちの世界は、資本制に則って、凄まじい勢いで活動し、しかも加速度を増している。人間の生活も、そのための「物質代謝」も、人間の幸福や、有るべき人間らしい生活、などと言うことはいつの間にか置いてきぼりにされ、飽くことを知らない資本の増殖のために奉仕するサイクルが高速で廻っている。もしその中に敢えて人間的なものを見るとしたら、限界を取り払われてしまった強欲や、支配欲や、臆面も無い自分本位というところであろうか。
 だが、このように加速度を増して高度化する経済に対して、人類が抱える病気の治癒や、エネルギーの供給や、格差や政治的対立などの解決がある程度託せるにしても、一方でおそらく誰もが不安に感じているのは、このような大量消費、成長志向、イノベーション頼りの経済活動がいつまで続けられるのかと言うことではないか。
 ローマクラブが「成長の限界」を世に問うたのは1972年である。かれこれ50年近く前と言うことになる。しかし、資本主義経済体制はあの手この手で経済を発展させてきた。この本ばかりではなく、多くの人が指摘し、また私自身も三十年以上サラリーマン生活を送った経験から、また現代日本に生きる一国民としてしみじみと感じるが、資本制経済はその本質的性格として常に成長を欲する。そして成長のためには、未だ開拓されていない市場、すなわち「外部」が必要なのだ。帝国主義時代には西欧列強にとって、そして遅れて参加したロシアや日本にとっても、アフリカやアジアが植民地の対象として巨大な外部であった。例えば中国は常に欧米諸国にとって魅力的な未開の市場であって、欧米企業と何らかの契約交渉を手がけたことがあるビジネスマンなら知っているだろうが、彼らは中国を自らのテリトリーとして強く主張するのが通例だ。
 だが、中国もインドも高度な資本主義化が急速に進んでいる。柄谷行人が言っていたように、インドに耐久消費財が行き渡ったら、次は一体どうするのだろうというのは当然の疑問だ。(僕自身の答は、資本制は、無理矢理にでも外部を作り出す、と言うものだが、ここでは論じない。)
 いずれにしても、少なくとも空間的には「外部」が急速に狭まっているのは事実だろう。何しろ、ミャンマーが最期のフロンティアと言われるくらいなのだから。
 資本制はその意味で限界が近づいていることは、誰もが薄々感じていることなのでは無いだろうか。そして外部がなくなると言うことは、資源の限界であり、市場の限界であり、資本制の矛盾を掃き捨てる外部の消失を意味し、それでも無理矢理資本制のエンジンを廻せば、自家中毒に陥って、人間で言えば多臓器不全に陥るのではないかと誰もが不安を感じはじめているのではないか。おそろしいのは、それでも資本制はしぶとく生き残って、地球と人類をぽっくり安楽死させてはくれず、汚水と二酸化炭素の増大した暑い地球に相応しい思想と、生活様式と、人工臓器だらけの人間を作り出して行くのかもしれないと思えることだ。それは、少なくとも現在の私たちにとっては、望ましくない未来のはずだ。
 だから、現在の私たちの視点から言えば、この本の論点として何より大事なのは、資本主義の進展が気候変動に甚大な影響をもたらし、地球が人為的に温暖化し、もはや元には戻れなくなってしまう点、POINT OF NO RETURN が近づいていると言う点だ。この点を超えてしまえば、危機は複合的、加速度的に深まり、例えば海面が上昇し、日本でも江戸川区や大阪湾の沿岸地区が水没すると予測されている。
 本書によれば、科学者たちは2100年までの平均気温の上昇を産業革命前の気温と比較して1.5度未満に抑えることを求めている。それが達成されるような道を早急に見いださなければならない。

2.気候ケインズ主義の限界
 このような危機を多くの人が気づき、対処しようとしているが、例えばそれはSGDSであり、グリーン ニューディールであり、それらを支える様々な研究、理論であるが、一口で言って、著者はそれらがまやかしであり、問題を解決するものでは無いという。SGDSは現代版の大衆のアヘンだとまで言うのだ。
 様々な論拠をあげているが、科学技術の進歩により問題を解決することや、生産性を高めることにより問題を解決することは無理なのだという。
 資本主義の矛盾を引き受けさせられているのが、グローバルサウスであり、日本を含むいわゆる先進国の帝国主義的な生活様式を成り立たせるために、グローバルサウスは外部として様々な痛みを引き受けている。それこそを解決しなければならないのに、資本制の高度化や、科学技術の進歩による問題解決の方向は、詰まるところグローバルサウスの問題を解決しない。なぜなら、これも一口で言えば、資本制の仕組み自体が犠牲となるグローバルサウスを必要とするからだ。著者はいくつもの論拠をあげているが、ここでは詳しく述べない。繰り返し著者が言及しているのは、通常、生産と経済成長というパラダイムに捉えられていたとされるマルクスは、その晩期においては、1で述べたような資本制の限界に気がついていた、ならばこそ、資本論の2巻以降が容易に完成しなかったということだ。

3.新進気鋭の思想の魅力
資本制では結局問題は解決せず、協同組合的な新たな体制が必要とされる。その発想は大変魅力的である。なぜなら新たな体制、新たな経済、新たな社会で、資本制の矛盾が解消に向かう絵が描かれているのだから。
 だが、問題はどうしたらそのような新体制に移行できるのかということだ。
 単なる科学技術信奉ではだめで、SGDSではだめで、生産性の高度化ではだめで、ではどうするのか。世界各地の事例が述べられているが、散発的、ごく少数の事例という点は否めない。
 さて、私はここで、少々品の無いことを述べる。
この本の本来の主張とは離れて、私が読みながら思い出したのは、若い頃に見た映画「祭りの準備」の一場面だ。デビューしたての竹下景子や、駄目男の原田芳雄のたまらない演技が見られるが、私が思い出したのは次のような場面だ。共産党の若いインテリが街にオルグにやってきて、竹下景子などの街の若者たちを魅了する。そして、竹下景子は浮かされたようにこの若いインテリ左翼と寝てしまう。そのことを後悔しながら、江藤潤演じる恋人に告白し二人は肌を重ねる。
 この映画で覚えているのはその場面ぐらいなのだけれど、そしておそらく本筋とは、まるで関係ないのだけれど、この左翼インテリ思想が、かっこいいインテリの若者によって語られるときの、魔術的な魅力は大変強力だと一言書いておきたい。かつて多くの若者が、現実の過酷さや理不尽さを明快に説明し、劇的な改善を、革命を訴える思想に魅了され、行動し、時には命を落としたのだ。
 ここで私は思想の善し悪しを言いたいのではなく、颯爽としたインテリが、地方のきっと大学には行かない若者たちを魅了し、先鋭的な行動に駆り立てると言う構造、現実の社会構造のより先鋭化した姿をはっきり意識化させておきたいのだ。
(例えば、共産党は日本で一番の学歴社会という言い方がある。確かに党首をはじめ、歴代東大出身の幹部が多い)
 これはお門違いの老婆心かもしれず、吝嗇で凡庸な勤め人の偏狭な見方かもしれない。しかし、思想は時に人を滅ぼすのだから、そして犠牲になるのは得てして純粋に思想を信じた若い人々なのだから、用心深さがあってなぜいけないと私は思う。嗚呼、品の無いことを書いてしまった。
 
4.3.5%
著者によれば、資本主義は希少性を無理矢理にでも生み出すことによって加速度を生み出すが、その原理を反転させて使用価値の潤沢さを生み出していかなければならない。それは極めて困難な道であるが、「気候正義」という今世界共通になりつつある価値観を梃子として進めて行かなければならない。それにしても、道は険しい、と言うか、すでに述べたようにインテリの絵空事に見えてくるわけだが、後書きでハーバードの学者の説を引きながら、3.5%の人々が非暴力的な方法で本気で立ち上がると、社会が大きく変わると述べている。フィリピンのマルコス政権を倒した運動や、グルジアバラ革命が例示されている。では、ウクライナは、ミャンマーは、と問いたくもなるが、著者は、やるべき事、できることはいくらでもあるのだから、(例えば労働者にとっての労働時間短縮運動)やらないことの理由にはならないと言う。

 私は思想家でも運動家でもないが、常々経済の仕組みに疑問は感じてはいる。例えば、卑近な例では、ゴミの分別は、私の住む地方自治体、およびその近隣、おそらく程度の差はあれ日本全国で極めて煩瑣で、且つ少なくとも部分的に有料である。何頁もあるパンフレットで分別方法が解説されているが、分別とゴミ出しに膨大な労力と時間が掛かる。これはおかしくは無いだろうか? そもそもややこしいゴミが沢山出るのは、生活の利便という面よりは、企業の生産性の向上が優先されているのではないか。ゴミ分別の家事労働は、経済活動にカウントされない家事労働である。GDPにはカウントされない隠れたシャドウワークである。しかもゴミの量は明らかに増えているというのが実感である。このカウントされない家事労働分をGDPから差し引かなければ、本来の生産性は計算できないのでは無いだろうか。

 それにしても、3.5%と言う道しかないのだろうか。甘い環境理想主義として、橘玲なら一笑に付すであろう。
 にもかかわらず、私はこの本に吸引力を感じるのは、脱成長経済への理論的展開を、「気候正義」をバックボーンに見事に行っていると考えるからだ。
 今、当否を論じる力は私にはない。すぐには難しいだろうが、ここで参照されている幾つかの文献にも当たって、私なりにもっと考えを深めて行きたい。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)