「御社のチャラ男」 絲山秋子著  講談社単行本 感想文

 優れた会社小説だという評があり、また批評の一つであったか、チャラ男はどこにでもいるという言葉にふと感じるものがあり、この新型コロナ対応のための外出自粛の中、電車に乗って隣の駅の大型書店で購入して読んだ。(いつも寄る駅中の書店にはなかなか並ばなかったのだ。)
私自身が感ずるところがあった会社における「チャラ男」と、この小説の「チャラ男」はちょっと違っていたけれど、それ以外の点でもいろいろ面白く読んだ。その中には私がサラリーマンを40年近く続けている人間であるから感じたことも多くあると思う。
さて、初めに私が感じたことは、チャラ男はどこにでもいると言う惹句によってひらめいたものであって、そうか、あの人も、あの人もチャラ男だ、と会社のそれなりに地位のある人たちの顔が浮かび、何か腑に落ちた気がしたのである。
通常、チャラい、というのは、何か浮ついた感じで特に女性に対して気軽に手を出してへらへらしている軽薄な性格を指す、といってもあまり外れていないだろう。
チャラいに対置される人間像は、責任感がある、首尾一貫している、へらへらしていない、上品である、異性に対して節度ある態度をとる、といったところだろうか。通常そのような人のありようが望ましいといわれるのであり、私自身そう思っていたのであるが、ところが、もしかすると私は根本的に間違っていたのかもしれない、と感じたのだ。いや、間違っていたというよりも、対象に対して用いる物差しが間違っていたという感じのほうが近いかもしれない。
会社のあの人も、あの人も、そんな人々ではないな。チャラい。そう見たほうが人物像にしっかり焦点が合う気がする。能力のあるなし、責任感とはちょっと違った角度で、組織の中での自分の捌きかたと言ったらいいだろうか。
これは私にとって、大げさに言えばコペルニクス的な認識の転換だった。だって、今までそれなりにまじめに、しっかりと、立派な評価軸にのっとって仕事をして、そういう価値観によって、会社員生活が秩序付けられていると、どこかでまだ思っていたのに違いないのだから。しかし、そもそもその評価軸がずれていて、本来合わせるべき評価軸がチャラいものだったら。会社というものがチャラいものだったのなら。さらには、社会が、この21世紀極東の日本に現出した社会がますますチャラいものになりつつあるのだったら。私の評価軸の転換どころの話ではないことになる。
さて、本題に入ろう。
まず、読む楽しみについて、語りたい。小説を読む楽しみはいろいろあるし、人それぞれでもあるだろうが、私の場合、まず小説の世界の空気感が感じられて、引き込まれていくということが第一にある。
建前の論理・規範・規則・通俗道徳から離れて世界が形を成していき、その中で人物が立ち上がって陰影を持ち、物語世界を歩き出す、それこそが小説を読むことの醍醐味ではないか。そのような楽しみが、しっかりとした小説らしい実質がこの作品にはある、ということが読みだしてすぐにわかるのだった。まずそのことを言っておきたい。
ジョルジュ食品という会社に勤める社長以下従業員あるいはその関係者が一章に一人語り手となって、物語は進んでいく。経営者、上司、部下という関係性のみならず、それぞれの性格や、来歴によって人物が形作られ、相互に印象が語られるから、一方的な造形とならない。
サラリーマンとしての経験から言うと、伝統的な日本の会社では、組織の役割の上での関係性と、性格や過去のしがらみといったものがないまぜになって、結構深いところまで、例えばプライベートな情報もお互いわかっているけれど、同時に互いにかわす言葉はあえてありきたりというような、わかったうえでの距離感を保ったやり取りの仕方というか、ビジネスの現場で通用させるプロトコルが確かにあり、時には踏み外しながらもお互いそのプロトコルに乗っ取って仕事をしているという感じがある。そのような空気感、冷たい親密感というか、距離感というか、そういうものがこの小説の中には確かに醸し出されていると感じた。
そのうえで、印象に残った部分をいくつか挙げておこう。

 「チャラ男における不連続性」 伊藤雪菜(29歳)による
 伊藤雪菜は真面目な社員だが、うつ病になってしまう。
「何もかもいや、考えるのも動くのもいや、という気が強くしたのだけれど、何か問題を抱えているというよりも具体的に考えるのが面倒くさかった。それが、会社を休む前の日々だった。」というのはとてもリアルだ。リアルだ、と感じるのは、私もうつ病ではないが、倦怠感や友人から「不定愁訴」と言われる程度には、毎日が不安だ、いやだ、とつぶやいていたこともあるのであり、しかしどこか不感症なところがあり、強いわけではなく、ただゾンビのように会社に通い続けているという思いがちょっとあるからである。
この、周りの空気がほんの少しずつ濁っていき、息苦しいわけではないはずなのだが、いつもの通り笑ってもいるし、会話も交わしている、にもかかわらず 、すがすがしい感じが薄れていき、少しずつ苦しくなっていく。何もおかしいはずはないし、自分はやるべきことをやって、周りのことをきちんと見ているはずなのにつらさが募る。
 まあ、私の場合はうつ病になるには人間が軽薄すぎるし、いい加減だから伊藤雪菜のようにはならなかったのだと思うが、現代日本では、いわば構造的に大多数の人間がそのような危うい場に置かれているのではないか。
確か、医者の斎藤環氏がどこかで言っていたが、最近のメンタルヘルス患者の激増は、疫学的には説明できないそうだ。現役サラリーマンとして言えば、メンタルヘルスは恰好の逃げ場になっているとは言えると思う。診断書を出されたら会社は長期療養を認めざるを得ないのだから。
ちなみに心療内科の先生にも色々いるようで、薬をやたらに出してもうけるような人もいないわけではないようだ。メンタルヘルスが注目されるようになればなったでたちまち資本主義経済に取り込まれていき、抜け目なくもうけようという、はしっこい人が出てくるわけである。
伊藤雪菜は回復する。けれどそれはなにか明るい物語でも、原状復帰というようなものでもなくてもっと灰色がかった、躓きがちな、先が見えているわけでもない坂道、と言った感じである。きっとそれこそが彼女の、そして私たちの現実なのだ。

イケメンの軸 池田治美(50歳)による

池田治美は、ジョルジュ食品に勤める池田かな子の母親である。彼女が語る勤め人時代の話が面白い。私自身は還暦を超えた男性なので、彼女が一緒に働いていた同僚や上司の男性世代に属する。とは言え、若いころ池田治美が付き合った社員旅行の思い出にはいろいろ考えさせられる。
彼女は結婚後女性正社員として頑張って、その一環として(考えて見ればおそろしい)社員旅行にも女性一人で参加するのであるが、旅館の従業員の態度も男に対するものとは違うし、寝る部屋は添乗員のための予備部屋のようなところである。なんで女一人くっついて来たんだよ、という顔をされると幹事に訴えると「気にしすぎだよ」と言われる。
しかし、ボイラーの音がモーンモーンとする添乗員部屋で一人座っていても少しも面白くないのである。社員旅行というのは社員の慰安のためだから、その目的が少しも果たされていないのである。
 まあ、男の私も若い頃幹事団として参加した浜名湖への大社員旅行は面白くなかったけれどね。みんな盛大に酔っ払って馬鹿な事をする、という役割を果たしているという感じがしたものだ。女子社員も沢山参加していたから池田治美のような目には遭わなかっただろうが、人によるだろうなという感じは持っていた。つまり、そういう会社の役割に自分を当てはめてそれを楽しめる人とそうでない人がいるだろうと。しかし私の個人的思い出などどうでもいい。ここでのポイントはそこではない。
池田治美は、我慢して頑張れば、そのような理不尽もなくなり良くなっていく、と考えていたが、今ではそれが間違っていたと考えている。男の側から言うとここで示されているようなことは、できあがった世の中の仕組みそのものであって、責任を感じることもないし、変える必要もないものである。そういう意識であるからそう簡単には変わらないし、変えようとすればいわば自然に逆らうことと受け取られるから、大きな抵抗にあう。変えようとする女は「かわいくない」し、頭が変に良くてあつかいにくいわけで、それに同調する男は日和った意志の弱いバカで、もしかすると変な思想に染まった裏切り者である可能性すらある。池田治美が、自分の若い頃の態度が間違っていたと思うのも宜なるかなである。
おそらく、多くの女性がお淑やかな微笑みの奥に秘めている思いを、濃淡があるであろうが、言語化していけば池田治美の思いにつながっていくのだろう。

 イケメンについて
 しかし、この章の題名は「イケメンの軸」なのであった。イケメンに付いての叙述がこの本の中で私が最も理解できない、よく分からないところだった。
池田治美は社員旅行から帰った娘と車の中で話しながら思う。
イケメンの中途入社社員が、社員旅行で酷く酔っ払って馬脚を現したという話の後で彼女は思うのだ。
 「それでも、かれらの間には決定的な違いがある。
 中心をどこに置くかだ。
 世の中がぐるぐる回る独楽のようなものだとしよう。
 どんなバカでもどんなに下品でもイケメンというものは、あるいはもてる男というものは、独楽をきれいに投げて回せる人だ。
 独楽は自分から離れた場所で回っている。だから価値観の中心、つまり独楽の軸は自分の外にある。必要があれば最初から中心を相手の近くに寄せてあげることもできる。独楽の軸が動いたところで自分のバランスが崩れるわけではない。全く構わないのだ。影響を受けないのだ。
 だが大多数の、イケメンではない男は独楽が自分の中で回っていると思っている。独楽の軸を自分の内側に置こうとする。スタンダードを取り込んでバランスをとろうとする。どんなに育ちが良くても、どんなに性質が温和でも。
 そのために彼らは努力する。すさまじい努力を。
 もしも中心が自分の外に出てしまったら、あるいは傾いてしまったら、彼らはバランスを失って倒れ、おそろしい目に遭うと思っている。絶対に中心を失うまいと思っている。彼らは独楽の上に乗って回りながら身をかがめ、足下の軸にしがみつこうとする。あり得ない曲芸だ。軸が動くだなんて、軸が自分から離れて少数派や部外者のものになるなんて絶対に許せない。そりゃもう発狂したように怒るわけです。」
 長い引用になってしまったが、はじめに読んだ時には訳が分からなかった。しかし、娘はこういう話を聞いて「わかりみが強い」と言っているのだから、作者としては強く思っている事なのだろう。
 で、再読三読して考え至ったのは、池田治美は、そして多分作者はイケメン至上主義者、とまでは言わないまでもイケメン中心主義者と言うことなのかなということ。
 イケメン中心主義者にとって、イケメンである事によって世界の価値基準が定まり、安定しているから、イケメン君自身の振る舞いや人格は二の次になる。イケメンでない男は通常それ以外の社会的属性によって女性を引きつけざるを得なくなる。「色男、金と力はなかりけり」という言葉は昔から有って、金も力(権力)もないのに女性を引きつけるのが本当の色男というものだ、と言う意味だろうけれど、そういう色男はバカだろうが、下品だろうが女性を引きつけてしまうわけだ。またこの命題が真だとすれば、その対偶である「金または権力のある男は色男ではない」もまた真と言うことになり、一般に社会的動物である人間は、年齢を重ねるごとに若さは失っていくが、財力と属する組織での権力は増すように努力していくわけで、それがうまく行った人間が成功者と言われる訳だ。一方で、金や力のある男は、モテたとしてもそれが己のイケメンの力によるものかどうか原理的に常に不安にさいなまれるわけである。
なんて、理屈をこねてみたけれど、何を書いているんだろう私は。まったくとんちんかんかもしれない。
イケメン中心主義とは何か、と書こうと思ったけれどそれは止めて、イケメンから遠く離れてぼんやり生きてきた私のような人間にとって、池田治美のイケメン中心主義は、新鮮であり女性と言うものについて一つ学びましたと素直に書いておくにとどめることにしよう。

御社のくさたお(葛城洋平による)
ここでは、一つだけ書いておきたい。
葛城はジョルジュ食品に中途入社したイケメン君である。
彼の述懐。
 「次の時代に対して、同じ不安は持っているのだ。具体的には想像もつかないが、大事件が控えていると言う気がする。嵐の前の静けさを感じている。
 中略
 それが悲惨なテロなのか内戦なのか天災なのかパンデミックなのかわからないけれど、「平成のときはまだましだった」とみんなが言い合う姿は容易に想像できる。」

 この小説は2019年に書かれ、私が買ったのは2020年1月21日発行の第一刷である。つまり、この文章が書かれたのは新型コロナウイルスによってパンデミックが引き起こされるずっと前であって、今この文章を読むとその予言的な内容に驚いてしまう。
 パンデミックは起こり、オリンピックは延期され(中止の見込みも高い)、経済は大きく落ち込みまだ底が見えない。日本の経済力は確実に落ちてきており、高齢化によって潜在的なパワーも先細りなのに、前のめりなビジネス優先の空気が醸成されていて実は不安でたまらない、と言う状況だったのかもしれず、だとするとこの新型ウイルスによる変化は良い意味でのブレーキにもなり得るかもしれないが、とはいえ社会の弱い部分・人にしわ寄せが行くであろう事は容易に想像でき、しかも我らが政府は弱い立場の人たちをサポートすること関しては唖然とするほどやる気がなく、且つ実務上の手段も貧弱であることがすでに露呈している。一体どんな社会になるのだろう。変化は起きざるを得ないし、しかも広範且つ深刻なものになるのだろう。でも、老化や成人病にいつの間にかなれてしまうように、私たちはそんな社会にも慣れていってしまうのかもしれない。
 小説に戻ると、小説家の感受性というものは、こうして世の中の変化をとらえ言葉にしていくものなのだな、と感じ入ったのであった。

 そのほか、この小説は面白い点が一杯有って、会社のできごとあるあるでもあるし、現代社会の本音の言葉シリーズでもあるし、現代の労働者の心情を考えるきっかけにもなるし、とても面白かった。筋としては、チャラ男が記者会見でドジを踏むのはどうもなあ、と思ったけれど、それも小さい点である。
 以来、糸山秋子の小説を読み続けている。今まで「沖で待つ」を読んだだけだったけれど、その再読を含め、暫くマイブームが続きそうだ。