「未完の資本主義」 ポール・クルーグマン他著 大野和基インタビュー編      PHP新書

デビッド・グレーバー(David Graeber)の「ブルシットジョブ」という本が話題になって、読んで見たいと思い本屋で探してみると、とても厚い本だったので、基本となる知識もまるでなかったから、もっと手軽な入門書的な本はないか、と本屋の端末で検索して見つけた本。国際ジャーナリスト大野和基氏(この方の本を読むのも初めてであった)が、デビッド・グレーバーを含む7人の経済学者やジャーナリストなどにインタビューしたものを纏めた本である。
「ブルシットジョブ」についても、グレーバー自らが簡潔に語っていて、その意味で私の当初の目的は果たすことができたが、それ以上に世界の第一線で様々な論考を世に訴えている様々な学者、ジャーナリストの考えを簡明な形で知ることができて、大変興味深い本であった。
 ここでは、ブルシットジョブを書いたグレーバーのインタビューについての感想と、そのほか幾つか印象に残った論者の主張について書いておきたい。
「ブルシットジョブ」とは、「くそどうでも良い仕事」と訳されている。単にムダな仕事と言うよりも、つばを吐きかけるようなニュアンスがあるようだ。
 しかもなぜか、高給取りに自分の仕事が「意味がない、くだらない」と感じている人が多いとグレーバーは言う。
 一つ感じたことは、グレーバーがイギリス人だと言うことを意識して読むべきではないかと言うこと。
 グレーバーは、自分が労働者階級の出身であり、管理職の階級の人とは無縁であって、どんな仕事をしているのか知らなかったが、パーティに顔を出して聞いて見ると、大した仕事ではないと言われた、と言うことがこの本のきっかけの一つとしている。
 イギリスの有閑階級は確かにそういう人が沢山いるのかもしれない。突飛な連想だが僕は、好きなイギリスのミステリードラマを思い出した。ポワロは有閑階級の顧客を相手にしている。ミス マープルは、いつも編み物をして特に生活のための金を稼いでいる様子はないし、皆、午後の紅茶を愉しんだり、会食を愉しんだり、別荘に遊びに行ったりしている。そういう人は召使いが別にいるのであって、自分が役に立つ仕事をしていないなどと悩んでいる様子はない。
 それが、資本主義社会が進んで、貴族的な消費生活をそのまま体現することが赦されなくなったとすれば、消費としての仕事をする有閑階級が現れてもおかしくはないだろう。 もちろん、グレーバーの射程はこういうシンプルな階級論だけで終わるものではないが、そういう背景もあるだろうと思われた。
  残念ながら私の知識では「深い射程」を明瞭に理論化することはできないので、一つだけ勤め人としての経験からグレーバーの指摘に深く頷いたことを記しておこう。
 グレーバーの指摘する「ブルシットジョブ」は数々あるが、コンプライアンス関係の仕事は私が膝を打ったものである。
 会社あるいは、会社に限らず何らかの組織が、法に則って仕事をし、何らかの価値を生み出すことによって社会に貢献する、それに伴い私的企業であれば利益を得ると言うことは、言わば当然のことであるし、その当然のことから逸脱しないように組織内に独立した監査組織が必要なことは組織論的に必然であるし、理解できる。問題は、そのような組織が整理されずに増殖し、現場に対して様々な予防措置、確認書類、監査対応を求めてくることである。コンプライアンスに対応するように仕事の質を高めることは重要だが、一方で私的企業は利益が出せなければ存続できないから、仕事の効率的な推進のために骨身を削っている。コンプライアンス部門もそのことはわかって居るが、現場の要請を認めてばかりいては彼らのレーゾンデートルに関わるので、しばしば酷く頑迷な態度をとることにもなる。ここで組織内において本質論的議論が深まるなどと言うことはないのであって、現場はなるべく簡単にやり過ごすために、最低限必要な書類は揃えることとなる。とは言えコンプライアンス部門の要請は満足することがなく(満足すれば彼らの組織は縮小・解体されてもいいわけだ)、より高い水準・広い範囲に拡がっていき、ふと考えてみればこんな事例はどのくらいの頻度であるのだろうかと首を傾げるようなことにも、様々な検討がなされ、書類が作成される。こうしてペーパーワークの山が次々に築かれていく。さらに悪い事にはそれらはしばしばやっつけ仕事的に、第一義的にはやり過ごすためになされるから、本当に問題が起きたときに大して役に立たないこともしばしばおこる。
 結果として、すべてとは言わないが、役に立たない「くそどうでもいい仕事」が野放図に増殖していくことになる。(すべてとは言えないところがまたやっかいだ)
 さて、グレーバーから離れて、私の心に残ったエピソードを以下に記したい。
歴史家・ジャーナリストである、ルトガー・ブレグマンがインタビューの中で述べたものである。
 100歳を超えるような長寿の人が多い、イタリアのある町に調査に行った人の話。
その町の医療制度や食事は、特筆すべきことはなかったが、なぜ長生きできるのかと言う理由は非常にシンプルで、彼ら(老人たち)は決して一人にはされなかった。家族や友達がいつもそばにいた。
 翻って、日本やオランダはどうか、とブレグマンは問う。
 日本の介護制度を否定するものではないが、介護施設が人の幸福を目指したものというより、もしかすると社会全体の経済の効率をあげることを目的としてるのではと考えても上手く説明がつく(生産性を上げるために効率的に老人を管理し、労働力を開放する)ことを私は意識せずにいられない。
 このほか、この本で特に興味を引いたのは、チェコの経済学者トーマス・セドラチェクの経済学批判、クルーグマンの経済学の限界を知った上での日本の現状への考察などである。またベーシックインカムについても、西洋では、賛否はともかく、広く議論されていることがわかり蒙を啓かれた。
 総じて、資本制経済に問題があることを認めつつ、様々な修正を加えて人間がもっと人間らしく暮らしていくための方策を大胆に述べており、閉塞した日本の経済状況とそれに対する対応・議論に慣れた頭には、大変新鮮で示唆に富んでいた。
 再読しているし、各論者の著作の入門書としても使える。また、大いに愉しんだ。
また、これだけの仕事ができる大野氏は、もっと売れてもいいのでは、と思った。
(一方で、この感想文を書くのは大変だった。すこし学問的なことを文章化するのにもそれなりの訓練がいるのだろうということを痛感した次第。嗚呼)