「袋小路の男」 絲山秋子著 講談社文庫  感想文

 絲山秋子の連作短編2編と「アーリオ オーリオ」という短編が収められている文庫本である。
はじめの2編「袋小路の男」と「小田切孝の言い分」は対になった作品である。

「あなたは、袋小路に住んでいる。」と言う文章で始まる「袋小路の男」は一人称の小説であって、袋小路に住んでいるのが、小田切孝である。「小田切孝の言い分」は三人称小説であって小説の手法が変わっている。「小田切孝の言い分」は、続編というわけではなくて、同じ題材に違った方向から光を当てた作品のようだ。
「袋小路の男」では、はじめて出会ったときは高校生であった主人公・語り手が、恋い焦がれながらも小田切孝に相手にされず、大人になって遠方に就職して関係が途切れたが、偶然に出会って再び付き合いが始まる。しかし、それは主人公が恋しているにもかかわらず、恋愛やセックスや、結婚に発展・あるいは進行・もしくは解決しないですすんでいく。主人公はおそらくその間、別の男と恋愛やセックスもしているのである。
 一方、小田切孝は、袋小路の男と言う言葉が象徴するように、語り手が憧れる「かっこよさ」は持っているものの、作家になろうとしてなれず、バーテンのバイトをしながら新人賞に応募し続けているような男である。彼はまさに袋小路に居るのであって、自己の才能への賭けと新人賞応募というか細い手段(考えて見れば大変な競争率であって、才能の自由市場というものは、経済的には通常のサラリーマンが組織の中で仕事をすることより遙かに厳しいものに違いない)の間で不安定で、時に自虐的で、かっこいい高校生の時のようには振る舞えず、殆どつぶれかけている。
 主人公はそれがよくわかって居ながら、しかし恋い焦がれる気持ちは変わらない。と言うより、相手から無視され続ける、認められない片思いである事が続くことによって純化されて、何かありきたりな解決に陥る訳にはいかないような、実に微妙な、壊れやすい、それでいてかけがえのない関係性となって主人公を捉え続ける。
 「小田切孝の言い分」は、これもまた題名がよく現しているように、一人称小説を3人称とすることによって、改めて同じ題材をもう一度慎重に見直したような作品であると考える。この場合、小田切孝と言う人物像を深掘りすると言うより、彼に憧れる女性から距離を置いて客観的に見直してみた、と言った印象を受けた。
 この小説においても、二人の関係が何らかの着地点を見いだすわけではない。憧れていたものや人が、よく知ることによって実は大したものではないと言うことがわかって幻滅する、というのは小説の普遍的テーマであるが、この二つの小説においては、幻滅したり、何らかの社会的に認められたよくある着地点に落ち着くことをぎりぎり避けながら、関係を保っていくという小説である。こう書くといかにも技巧的な関係性の構築のように見えるが、そうではなくて、そもそも小田切は積極的に女性を恋愛対象とみていないで、便利に使い回しているようなところがあるし、女性も憧れながらも積極的に打って出ることはなく、そういう現実的なセックスや恋愛の対象から外れてしまっていることに憤懣やるかたない思いを抱いていそうでありながら、まるで琥珀のように堅固な思い、美しい思いに固められた小田切を、壊すことなく愛でている。大事なのは、そのような関係性を支える個々のディテールである。またディテールとない交ぜになった作品世界であり、そこから立ち現れる世界である。この点において、「御社のチャラ男」の感想文の冒頭でも書いたが、この小説においても、確かな小説世界が立ち上がっているのだ。
「アーリオ オーリオ」 について。
「離陸」の佐藤に通じるような、出世欲のない、自分から周辺に周辺にと動いて行くような哲と兄の子である姪とのやり取りが中心になっている。
 哲は静かに暮らしているし、異性にもてないわけではないが、積極的に動かない。(このあたりも佐藤に似ている)哲は姪に天文学について教えるが、姪が少し夢中になるそぶりを見せると、兄が阻んでしまう。その時に哲は、大げさないいぶりになるが、言わば現実と自分のやりたいことの狭間に立たされ、後味の悪さを感じながらも兄に妥協する。
 哲はもう姪からの手紙に返事を出さないこととなるが、その後で届いた手紙に返事を
書きかける。けれども出すことをせずに紙飛行機にして飛ばす。解説者が述べていることであるけれど、ここで終えてもきれいな結末である。けれど、紙飛行機は当然姪には届かず、地面に落下し、哲は工場へ行く際に拾ってポケットにねじ込むのだ。
ねじ込まれたものは、何か。
明確な答などない、やるせなさと清潔な静謐さがこの小説にはあると思う。