「家庭用安心坑夫」  小砂川チト著 群像2022年6月号掲載版 感想文

令和4年上半期第167回芥川賞候補作である。「おいしいごはんが食べられますように」を文藝春秋で読んだわけだが、たまたま候補作である本作についても群像を持っていたので今回芥川賞候補作になっている作品を読んでみて感想を書いてみることにした。
本作は、群像新人賞受賞作である。

本作は、私にとっては「おいしい~」に比べて、格段に読みにくい作品であった。冒頭から、主人公のリアルな現実と、妄想・幻覚とも言える世界がない交ぜになっていて(という解釈も、読み進むうちにそういう見当を付けたわけではあるが)うまく読む足場を築けなかった。
 しかし、読み進むうちに、特に主人公が亡くなった母によって父親と教え込まれている今はテーマパークのようになっている坑道の中のマネキン人形を盗み出すに至る一歩一歩の描写には、荒唐無稽な設定ながら読ませる力が有って、文学的な力量とはこういうものであるのか、と思った。
 それにしてもマネキンを父と思い込んで、盗み出して東京まで運んでどうするのだと思っていると、出奔した家には夫が不在で、がらんとしていて、主人公は夫と2人で暮らしていた生活に戻れないと理解するところで小説は終わる。
 これは、主人公の妄想と現実の結節点に主人公が着地せざるを得なかったと言えるだろう。マネキンはマネキンに戻り、もう主人公の妄想の対象としての働きをしてくれない。しかし、主人公の現実は、困難なものであったとしても、ここから始まるのだ、と言うのが私の読みである。

 妄想と現実と書いたけれど、改めて考えてみると、客観的現実世界を正確に捉えている人などいるわけはなく、見間違えや、聞き間違え、空耳、も頻繁に起こり、心配事があれば、考え込んであらぬ因果を想像するのは日常茶飯事である。科学的・客観的と思っていても実は概ねそう考えていれば世間でほぼ問題なく生きていける、と言う程度のものなのかもしれない。さもなければ、この世の中にこんなに沢山の陰謀論が、と言って悪ければ複雑な現象に浅薄な原因を当てはめることがはびこっているはずはないだろう。各人が見ている現実と世間が受け入れてくれる水準との差は実はいろいろであって、かなりの幅が、人が普通思うよりあるのだろうと思う。そして、その差が大きく広がり、さらに安定せずに動いてしまうのだとしたら、そしてそのような視点に辛うじて捕まって生きている人の視点からその揺らぎを含めて描いたのだとしたら、この作者の描くような世界もありうるのかもしれない、と思わされた。
 視点をどのようにとるかは、小説の世界を構築する上で重要な問題だろうと思う。通常、三人称、一人称、場合によっては二人称、手紙の文体、などがあるわけであるが、三人称と言っても簡単ではなくて、神の視点から本当に書ききれるかというと、いつの間にか1人の中に重点を置いて入って行ってしまったりする。一人称と言ってもいつの間にか三人称的に主人公以外の心理を描写してしまったりする。(これは技術的に稚拙なのだ、と三島は言っている)
 この作品の場合は徹底的に一人称なのだが、その世界の軸が揺らぐ、と考えると以外に方法的に画期的なのかもしれない。

 もう一つ。マネキンになってしまったかつて落盤事故で亡くなった坑夫の生活が、幾つかの章に別れて挿入される形で落盤で死ぬまで描かれる。これが必要なものなのか私は疑問に思ったが、この物語の部分だけでも描写に力があり、人物が浮き立ってくる。単純なアクション遭難もの、背景説明にはなっていないので、大したものだと思った。マネキンは単なるマネキンではなく、1人の人間がここにいたという印でもあるのだ。
 だとすると主人公がマネキンを父と思った事は全くの絵空事とも言い得ない、時空と次元を超えたつながりを見いだすことができるのかもしれなくて、そんな事を考えるのはすでに作者の罠に填まっているに違いないのだが、そう考えさせるだけの力が有るのは確かだ。
 
 読みにくいがパワーを感じさせ、私たちの生の一面に違った光を当てた作品と言えるのではないだろうか。