「史的システムとしての資本主義」 ウォーラーステイン著 川北稔訳 岩波文庫

ウォーラーステインアメリカの学者で、1930年生まれ、ポーランドユダヤ人のとのこと。2019年に亡くなっている。世界システム論に関する膨大な著作がある。あれこれの本の中で名前が出てくるので何か簡便に分かる著作はないか、と探したら2022年に文庫本が出ていた。彼の世界システム論について何も知らなかったので、全体を概括的に理解するためにはいいのでは、と手に取った次第である。
 270頁ほどの厚くはない文庫であるが、様々な論点が圧縮されており、難解・難物ではあった。素人には十全に理解できたとは言えないが、私が興味深いと思った点を記す。

1.史的システムとしての資本主義では、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として用いられる。
 あれこれの思惑、例えば人の命、福祉、安全などがぶつかり合ったとき、第一に優先されるのは利益の増大であり、資本の増殖であると言う事だ。それは、この500年ほどの間に世界に拡がり、それを司る立場の人はますます居丈高に振る舞うようになっているとされる。
 この点は、私としては深く納得する点である。例えば生命について、私たちの社会で第一に尊重されているかと言えば、Noである。自分たちで武器を作れないテロ組織が現代の高度な武器(ミサイルなど)を駆使しているのは、それを作る組織、流通させる武器商人がいるからである。そこにはビジネスによって利潤を積み上げる、まさに資本主義的な仕組みが働いている。直接的な比較衡量は意識に登らずとも、社会の仕組みとして人の生活と命は二の次になっていると言わざるを得ない。

2.史的システムとしての資本主義が成立すると、従来からの分業が労働の価値評価と結びつけられた。
 単純化して言えば、利益をより多く生み出す労働が価値が高いとされ、もっぱら成年男性の仕事とされた。一方で、家事労働的な、なくてはならないが利益を生み出す事の少ない仕事はその地位を貶められ、女性の仕事とされた。史的システムとしての資本主義が拡がり、深化することにより、この区別、この差別が明確化・強化されたのである。
 私としては、この点は大いに納得したところである。なるほど、介護や、看護、廃棄物の処理などの仕事は、エッセンシャルワークと言われるが、賃金は一般に安いとされる。大事な仕事ならなぜ賃金が高くないかと素朴な疑問を持っていたが、それが何かを売って利ざやを稼ぐといった利益を生み出す仕事ではないからである。

3.今日の世界が、1000年前の世界より自由や平等や友愛に満ちていることは自明であるなどとはとても言うことができない。
 曰く、近代社会は進歩という思想と深く結びついている。それはマルクス主義でも同様であり、 封建的社会体制に対し、ブルジョア革命でブルジョアが封建領主に取って代わり支配階級となり、プロレタリアートがさらに革命を起こし社会主義体制を確立するという発想は、人類の社会がだんだん良きものになっていくという進歩思想そのものである。しかし、現在が過去よりよりよくなっているという訳ではないとしたら、このような進歩史観は全面的に見直さなければならない、とウォーラーステインは言う。
 確かに世界の上層の1%、あるいは中間層の15%に焦点をあててその生活が豊かになったと言うことは言えるだろうが、残りの85%についてはむしろ悲惨になっている、史的システムとしての資本主義はこの両極化を推し進めるものだ、という。また豊かな生活とは言え、戦争は絶えず、核兵器は中国などで増え続けている。(そして、現時点で言えば、ウクライナイスラエルで私たちは確かに近代ならではの強力な兵器が、無力な民衆にむけられているの知っている)私たちの豊かさは、巨大な将来への不安、環境汚染、物質代謝の極大化、労働力の容赦のない加速化した使用などと引き換えであって、それらを考え合わせれば、史的システムとしての資本主義が成立する前より、良い世の中になっているとは必ずしも言えないという事だ、と私は理解した。

4.では、これからの世界はどうなっていく可能性があるのか。
この点についても、当然ながら簡単な議論で済むわけはない。前提として史的システムとしての資本主義体制が、人間社会の様々なプロセスの全的商品化、全地球的拡がりによりすでに限界に達しており、何らかの転換をせざるを得ない状況となっているとされる。
 この混沌から何らかの秩序が生まれるに違いないが、それは予見できない。しかし、ウォーラーステインは公式として幾つかの簡単なスケッチを挙げている。
1.一種の新封建制度とでも言うべきもの。
 現下の混迷の時代を発展させ、均衡のとれた形で再生産するもの。
2.一種の民主的ファシズム
 この世界では、世界はカースト風の二つの世界に分裂し、上の階層は世界の5分の1の人口からなる。この階層の内部では高度に平等主義的な分配が行われる可能性がある。残りの8割については、完全に非武装の労働プロレタリアートとすることができるかもしれないとされる。
3.もっと急進的で分権的で高度に平等化された世界秩序。ユートピア的であるが可能性はゼロではないという。

 いずれにしろウォーラーステインによれば、2050年、もしくは2100年に振り返れば、史的システムとしての資本主義は何らかの新しい体制によって、ネガティブかポジティブかは分からないが、過去のものとしての評価を受けている事になるだろうという。
 新しい体制は、今の世界の人々がどのような体制をとろうとするか、その動きに掛かっていると言うわけである。

 私たちが生きている経済社会が限界を迎えており、何らかの変革が求められている。素朴な社会主義革命思想などでは問題は解決せず、また漸進主義、改良主義に意味がないとは言えないが、本質的な変革には至らないとされる。私たちが生きている社会の数々の問題が、技術の発展や、経済的発展などでも解決し得ないと言う事を、世界システムという形で分析している点で、新たな思考を進める上での手がかりを得られたと思う。これからも何度も参照する事になるだろう。
 
補記的に、メモ的に、以下記す。
1.思想と現実
ウォーラーステインは、マルクスに言及して次の通り言う。
「かれが、みずから私はマルクス主義者ではないと称した事実は、真面目に受け取るべきであり、断じて単なるしゃれとして片付けたりするべきではないのだ」
 また、マルクスが、自分が生きている十九世紀の現実に制約されていた事を強く意識していたこと、自分が描いた完全な資本主義の解釈と現実の資本主義の分析との緊張関係があることを理解していたが、多くの人はこの点がわからず、見過ごしているという。
 マルクスの自覚は当たり前に思えるが、人間の思考は案外強く人間自体を縛り、考え出された概念を通じてしか世界を見なくなってしまうと言う事なのだろう。それが優れた思想であればあるほどそうなのかも知れない。
 優れた思想は滅びやすいと言ったのは小林秀雄だっただろうか。思想家は得てしてそのような罠に嵌まるものなのだろう。
 ここで、ウォーラーステインがいっていることは、マルクスを優れた思想家として評価すると共に、教科書的なマルクス主義には、いくつもの疑問を呈している事になる。社会主義と言う言葉も慎重に吟味されている訳だ。
2.封建制
デビッド・グレーバーの「ブルシットジョブ」に、現代の西洋社会では、民主体制とは言いながら、支配層の世襲が常態化するなど固定化してきていて、すでに封建体制と言っていい社会になりつつあると言う言及があった。日本でも、国会議員の世襲は当たり前になって家業のようになっているし、(だから議員は言わば選挙互助会の会員で、お互いの身分の保持が第一優先事項になる)、アメリカのハリウッドでも、有力者と近しいものによって固められているという。その程度は私には分からないが、アメリカのリベラル層も言わば特権化した層に占められ、そこに入れない、貧しい白人を含めた層との分断が拡がっているのは、トランプ現象などを見ても確かなことだろう。
 だとすれば、、私たちが民主体制に生きているつもりで、すでに一種の身分制に踏み込んでいて、歴史の進歩と言う言葉が戯言に聞こえてくるというウォーラーステインの考えがより説得力を持って迫ってくる。世界の変容を、しみじみと感じざるを得ない。