言ってはいけない   橘玲著 新潮新書

2017年度に新書大賞を受賞したとのこと。残酷すぎる真実という副題や、美貌格差と言う言葉にアレルギー反応を起こし、読まないでいた。世の中の現実を見れば幾らでもそういう見方はできる(それなりのもっともらしい証拠も探せる、エコノミストがイベントがあるたびにもっともらしい経済効果金額を発表するように)であろうし、またそういう本の作り方が、格差が顕在化しそのことを肯定する底の浅い(あまり勉強しているとは思えない)論者、一般の人々に迎合するものに思えたからだ。
 一方で、私は橘氏の旧著 「新版 お金持ちになれる黄金の羽の拾い方」は読んでいて一口で言えば、常識にとらわれない吹っ切れた、ドライなものの見方に注目していた。もっとも私がよく理解できたかというと心許なく、金融、ファイナンス関係の知識と分析力について行けなかったのが本当のところである。
 この旧著で強く印象に残ったことを二つあげると、世の中の仕組み、制度にはバグがあり、そのバグを狙って常に利をねらう人々がいるのであり、しかも重要な事はそれらの人々には殆ど倫理的な「気後れ」がないと言うこと。もう一つは、「持ち家」に関する考え方で、著者自身が最も読者の共感を得られなかったと述べているが、持ち家に着いての否定的な見解である。ファイナンス・投資という立場から見れば、持ち家をしても、高度成長期のように土地価格が上がらない現在では儲かるはずはなく、賃借することと変わらない、賃貸の手軽さ資産を持つリスクのなさを考えれば家を持つ必要はない、と言う考え方である。
 二番目について先に述べると、投資として考えればと言うところが味噌であって、多くの人は利殖の対象として家を買うわけではなく、自分が安心して住める、老いていける、場合によっては死ねる場所として求めるのであるから、金銭的な損得を度外視した判断をしていると言えるのではないか。私自身、そのような考えで家を買った。老後の生活を考える上で参考になればと読んだ本でも、(いざというときに立ち退きを迫られない)持ち家を確保することを勧めるものが複数合った。
 一番目の問題については、私たちの生きている世界の変容というものをはっきりと反映したものだろうと考えるに至った。決定的なのはテクノロジーの進歩とグローバル化であると考える。何か新しい事をする際に、ITの活用は当たり前になっているし、それは否応なしに倫理中立的でグローバル化されたものにならざるを得ない。倫理中立的とは、「そういう悪い事しようとすればできるが、悪いと認識しているからしようと思わないし、他の人も同じようにしないから、自分もしない。それでもやる人はとても少ないだろうし、罪を犯したのだから罰せられるべき」という暗黙の前提を、もたない、と言うことだ。同質的であり同調的圧力の強い日本において、そのような暗黙の前提が社会の安全弁になり、暢気な風土を作っていたかもしれないが、今ではそんな事はまるで期待ができないと言うことだ。逆に言えば、この時私が学んだことは、制度の範囲内で有利に対応することができることであればどんどん利用するべきということである。卑近な例では、「ふるさと納税」について、私も昨年からささやか利用し始めたが、そのことに対する「気後れ、後ろめたさ」は捨てることにした。この過酷な世の中で生き残っていくためには「真面目に正直に努力していればやがて報われる」という向日的ではあるが暢気な、単純素朴な信条をもはや捨てるほかない、と私も(この歳で)強く意識したのである。
 前置きが長くなった。漸く「言ってはいけない」の話である。
幸いなことに、橘氏は敢えて格差や差別を声高に強調し、それを勝ち誇ったように強調する訳ではなかった。ここで述べられているのは主に米国の行動科学、進化人類学等の成果を活用して、私たちがこの世の中で暗黙の前提としていることへの反証である。著者は私たちが普通に前提としている教育の万能性や、能力の平等性が言わばイデオロギー的フィクションであることを述べる。より重要なのはグローバル資本主義の進展によって、私たちの世界の、このような牧歌的な前提がもはや保てなくなっていると言う認識なのである。
 私たちの世界をよくしていくためには、第一に私たちの世界がどのような世界なのかをよく認識しなければいけない、のであって、現実を都合よく解釈するだけでは世界はより酷い状態になるだけであろう。だから、言ってはいけないような現実でも、直視するべきである事には賛成だ。
 さて、少し用心深くなるなら、橘氏が上げているエビデンスも、学問的研究が常にそうであるように反証があり得るのではないかということだ。やはり米国の研究において、全く同じ地域に対する同時期のフィールドワークを行ったにもかかわらず、研究者によって正反対の結果がもたらされた、と言う文章を読んだことがある。その記事の結論は、研究者は自分の欲しい結論をデータから読みがちであると言うことであった。
 ここで私が言いたいのは、これは橘氏の問題ではなく、読者の問題として、ここに上げられたものだけに頼らずに自分で考える姿勢を持つべきではないかと考える。
 もう一つは、著者の思考の性質について述べたい。透明で、ニュートラルで切れ味がよいと感じられる。人が社会や歴史などについて語るとき、その人の情念や感情や、イデオロギーや、価値観などによってその言葉は不透明になりがちである。何を語っているかではなく、その人のバックグラウンドやイデオロギーによって何を話題にしていても結論が分かるということもある。
橘氏リバタリアンである事を明言している。文章は明快で今述べた不透明性が少ないと言うことを感じる。これは、経済を主題としていることが一つと、著者がアカデミズムから出た人ではないことも大きいのかもしれない。
 今後も橘氏の本は読んでいきたい。生き延びるためのヒントが得られることを望んでいる。