「忘れられたワルツ」 絲山秋子著 河出文庫  感想文

 

 絲山秋子の短編集である。マイブームで絲山秋子を読み続けている。

 短編集であるから、それぞれに個性の異なった小説が7つ収められているのであるが、ここでは主に、最期に収められた「神と増田喜十郎」について語りたい。
 まず、増田喜十郎という人物造形について。「離陸」の佐藤とは随分異なった人物であるが、すなわち、あまり知的に高度という感じはしないし、仕事に積極的でもないし、結婚はせず、殆ど成り行きで生きているような人物であるのだが、佐藤との共通点は、自分に忠実だと言うことである。
 これは大事な事だと私は考えていて、当たり前の事だと思われるかもしれないが、自分が何者であるかを、あるいは一歩譲って世俗的に言うなら自分が社会の中でどのような位置づけにあるのかを正確に捉えている人間は案外少ないのでは無いのかと思うからだ。私も例外ではない。
 年配の人間はしばしば世間の事をわかったような口をきくものだが、(煩わしいがこれも私を含めてである)それはあくまで自分の経験値と知識、思考力による射程の限りであって、含蓄の深いことを言っているようでも、類型的な思考の型にはまった、物わかりの良い苦労人に過ぎない人間は多い。 
 増田は社会的には全く目立たない、敢えて言えば人に使われて終わる中の下の階層に属するような人間であり、そこから出ようと言う気持ちも感じられないが、それは彼がそのような欲望を持っていないからであり、上昇志向に導く社会全体のの動機付けから自由であるからだ。増田は結婚せず、親が残した家で一人で暮らし、寂しいはずだが自足している。そのような他人・社会に対する関心の薄さと、それを自覚し糊塗しようとしないところが、増田という人間の、ざらざらとしたリアリティを感じさせるところである。女装趣味はそのような彼の社会との亀裂を示すとともに、生きるバランスをとるための支えを示しているのだろう。
 さて、神である。
神について総合的俯瞰的に論じるほど、宗教について通暁せずまた思索したこともないので、印象に残ったこととそれをきっかけに考えた事を記す。
 はじめに現れるとき、彼は歩道橋に腰を下ろして、新しい悪について考えを巡らせている。このような登場の仕方は一般的な、無意識のうちにも擬人化された高みにいる気高い神のイメージとはかけ離れている。後の場面では神は満員電車の中で蛾の姿に変わってみせるから、いかなる形にもなり得るのだ。私は「カラマーゾフの兄弟」の結末近くに現れる悪魔を思い出した。悪魔は、記憶が正しければ、いかにも冴えない中年男の姿で現れ、どこか馴れ馴れしい口をきくのだ。一方、この小説の中では「神は、苦しんでいる人とともにある。しかし誰も助けない。誰も救わない。」のである。
 日本の神様は、一般的に賽銭をあげれば、何らかの御利益がある、ということになっている。ごりやくはその字のごとく利益であって、一定の取引をする対象であるわけである。それが精神的な救いであろうが、現世的な何らかの利益であろうが、何らかのお返しがあってしかるべきと言うことだ。
一方でキリスト教の神様は、そもそもずっと虐げられたユダヤ人の神様であって、神は寄り添っては下さるが、必ずしも現世の御利益をもたらしてくれるわけではない。試練が訪れたとすれば、それは神が信仰を試しているのかもしれず、試練を乗り越えたとしても神の恩寵が得られることが約束されるわけでもないのだ。
 絲山秋子が描く神はむしろ、こちらに近いように感じた。神は蛾の姿になっているかもしれないし、路傍にたたずんでいるかもしれない。決して神々しく、いかにも神らしくは顕現しない。しかし、増田喜十郎とすれ違った神は、とっさに「危ない」と言って腕を支えるのである。「ばあちゃん大丈夫か」と神は声を掛ける。増田喜十郎は、転ばなかったことと女装がばれなかったことに安堵し、感謝するのである。
 神は神なのだからすべてお見通しのはずである。すると、この「ばあちゃん大丈夫か」は、すべてを見抜いた上で、増田がいる世界に沿って掛けられた言葉だと考えられる。
 このような現れ方をする神は、すでに幾分汎神論的な、普遍的な、人格神ではない有りように近づいている。神という言葉で言われるが、ある偏在する「はたらき」と言えるかもしれないし、時間を超えた、超人格的な拡がりと言っても良いかもしれない。
 とすれば「ばあちゃん大丈夫か」と声を掛けられ感謝する増田が感じたものは、物語的な、人格的な神がそこに現れたと捉えるよりも、ある超越的なものに触れたときの思い、自分の生活や人生の限界を超えたところにあるものを感じたと言うことなのだと言うこともできるだろう。増田の年ならば、増して自己省察に長けた増田ならば、自己の限界と小ささは、世俗的な意味でなくともよくよく認識しているはずであり、宗教的な意味によらずとも自己を超えたなにものかの有りようの、その手触りを感じるときもあっておかしくはないと思えるのだ。
 著者がそういう考えでこの小説を書いたかどうかわからないが、「神」を登場させるに当たってこれだけ読者に引っかかりを与える独創性は刮目に値するのではないか。

 そのほかこの短編集では、NRと言う小説が、筒井康隆の不条理SF小説のようで面白かったし、冒頭の「恋愛雑用論」は、現代的な恋愛についての認識でちょっと笑った。しかしこの小説は結局人生が雑用で満ちていることを述べて、疲労感に覆われて終わる。恋愛は雑用だが不要ではないとも述べているから、必要ではあるわけだ。必要だが渇望しているわけでもなし、しかし、いい男が居そうであると、そそられると言うこともあるわけである。でもやっぱり雑用だというところに、現代の物質的には豊かだがかったるい生活の姿が現れているのかもしれない。
どの小説にも、ちょっとずれた感じの人が登場するが、そもそも何が「ずれていない」かと言う尺度自体が、窮屈で、建前だらけで、お為ごかしのろくでもないものにますますなりつつあるのかもしれなくて、とすれば誰もが改めて見つめてみれば、かなりやばいずれを内包しているに違いなくて、そのような人々の小説、と言うこともできるかもしれない。