「離陸」 絲山秋子著 文春文庫

 御社のチャラ男で絲山秋子にはまった、すなわち絲山秋子という優れた作家を再発見した私が次に読んだ長編が「離陸」である。

 佐藤という、ダム管理などをするキャリア官僚の、ダム管理の現場、大学時代の回想、四日市の家族のこと、パリでの勤務、そこで知り合ったフランス人の恋人、そして結婚、帰国してからの生活、九州での赴任生活におけるフランス人妻の苦労、妻の妊娠、フランスへ里帰りした妻の突然の死、荒れる生活と退職。再就職した九州での一人での生活というストーリーに、大学時代に付き合って別れた女性が、フランスに渡り、さらには時空を超えて過去の中東の映画にその痕跡を残し、ついには一人になった九州での主人公の前に姿を現し、言葉を話せぬまま死んで行くという謎めいた話が絡む。
 このように纏めてしまうと、何が何だかわからない、と言うよりいろいろ材料を詰め込んだ凡庸な小説にも見えてしまうが、やはり私はこの小説を随分面白く、かつ意味深く読んだ。
 冒頭は、主人公が赴任している山奥のダムでの仕事ぶりが物語の下地となる。ここで学生時代の恋人と知り合いだという黒人のフランス人が現れることが物語を駆動する契機となるのだが、それより私はこの日本に確かに存在する「矢木沢」ダムの、夥しい、しかし深閑とした雪、深く冷たく昏い雪に閉ざされた管理の仕事、連なる山、麓の町、そこを往復する佐藤と同僚、という情景描写にこころを動かされた。昏い大きな山に吸い込まれるような気さえした。昔読んだ三島由紀夫の「沈める滝」の前半を思い出したりもした。
 つまりは、小説というのはディテールなのだな、どこに奔放に飛んでいっても良いのだな、と言うような感慨も抱いた。
 また、正直に言えば、佐藤という上昇志向を持たない官僚、控えめでいながら自分の感覚には実に忠実で、例えば自分に思いを寄せているらしい同僚の女性にも少しも調子の良いことはいわずにむしろ気まずさを選ぶような若い男の仕事ぶり、生活ぶりに、私とはもちろんかけ離れてはいるのだが、それでも21世紀日本において何らかの組織に所属してこつこつ生きていくと言う点において共感を持たずにはいられなかった。
 そして「離陸」という言葉である。
 離陸とは何か。「沖で待つ」を再読して感じたことでもあるが、離陸とはこの世からの離陸である。どこへと言うことが問題なのではなく、この世につかの間存在していたものが、何かの契機で離陸するのだ。消滅や、彼岸、輪廻、地獄や天国と言った概念との明確な差異。この世を離陸したものはどこかで、例えば「沖」で待っているのかもしれない。
 付き合い方は様々だとしても、人間がこの世で何らかの関わりを持ち、人生の形をなしていく上で影響を与える人々は、例え死を迎えたとしてもそれは消滅ではなく、私たちの世界と陸続きのどこかほかの場所に行くために離陸しただけなのだ、と言う死生観。いや、哲学的な話ではなくそう思わずにいられないほどに亡くなったはずの人の感触が、日々の暮らしの中で残された人、この小説では佐藤の肌にしっかりと食い込んでいるのだ。
 格別意気込んだ、特異な情熱をもつ人ではない佐藤も、自分に忠実であるという意味ではとても誠実な男であって、であればこそ彼が人生をともにした妻の死も、彼岸への消滅ではなくもっと生々しい、彼をさいなみながらも現実としての感触を残し続けるものであるのではないか。あるいはそのような関わりの総体こそが人生と言えるのかもしれない。
 もう一つ、こういうのもありか、と思ったのは、小説のプロットである。時空を超えたかつての恋人の謎解きも、恋人の子供についても、普通の意味では解決されない。つまり通常の小説であれば様々に置かれた「伏線」が、結末に向かって「回収」されていき、その収束の手際、ダイナミズムなどが小説の「面白さ」となっている。けれども、考えて見ればそのような「伏線」が着地する場所というのは、読者が既知の、その意味で予定調和的な場所とも言えるだろう。推理小説好きの私は、そのような安心できる結末を提供する小説も嫌いではないのだが、文学とは、私たちの認識を拡げる、揺さぶる、振り返らせるためにもあるのだから、予定調和的な場所ばかりに辿り着いていたら閉塞してしまうのは必然である。
 それに私たちの生活というものが、そもそも回収されない伏線だらけで、その中でせめてもののわかった振りをしていなければ、やっていけないのかもしれない。だとすれば、佐藤が体験したこととその成り行きも、より私たちの生活に近しいものと言うことができるのかもしれない。時空を超えることさえ、SF的なプロットではなくて、もしかしたら私たちの感覚の中で、さほど不思議ではなく達成されてしまう事なのかもしれない。
 佐藤の幸福を祈る。