「AIに負けない子供を育てる」 新井紀子著  東洋経済新報社

 

著者は、AIで東大合格を目指すという、一般大衆にとっても実にキャッチーなプロジェクトを率いて大変有名になった学者である。また前著「AIvs.教科書が読めない子供たち」がベストセラーとなったことでも知られる。本書は、その続編であって、読解力テストの有用性と必要性をアカデミックに解きあかし、何より読解力を養成することが教育において急務である事を訴えている。
 私がこの本を買った動機は、前著を読んでいないものの世の中で評判になっていたので興味があったことと、何よりRST(reading skill test)と言われる著者(たち)が開発した読解力測定テストの簡易版が載っており、やってみたかった、さらに舞台裏を明かすと仕事先の若い人にどの程度点が取れるか試行できるチャンスがあったためである。
 と言うわけで、自分の楽しみのためといういつもの読書とは違うのだが、熱心に読み、かつテストもそれなりのデータをとったので考えた事を記しておきたいと思う。

 以下は私が読み取った内容(著者の主張)のざっとしたまとめである。
1.まず、著者によれば、教科書や新聞などの文章を読むための基礎的な読解力(バックグラウンドとしては中学程度の知識と、常識)があれば読み解けるはずの文章を読めなくなっている、意味が捉えられなくなっている子供(そして大人)が多くいる。
2.それは、文学鑑賞に偏った旧態依然たる国語教育( 山月記や、舞姫や、こころをいまだに教えている)と、近年の教育界における親切すぎる教育方法(穴埋め式や、親切なプリント)に一因がある。
3.したがって、論理国語の導入はよいことであるし、文学鑑賞に偏った古い頭のままの国語教師を怠けさせる教材ではなく、まず普通の文章、例えば理科や社会や数学の教科書をしっかり読めるようにするべきだ。
4.著者たちが開発したRSTは読解力を測定する上では十分な母数で試験を繰り返しており、またテストに関する専門家の確認を経ているから信頼性が高い。これまでのデータによれば、読書量は必ずしも読解力とのつよい相関はない。
5.一方で、高校の偏差値とRSTの正答率は高い相関を示す。したがって、読解力が高い事は、偏差値の高い高校へ進学できる確率が高いことを示し、ひいては偏差値の高い大学へ進学できることを示す。したがって、人生の様々な可能性を高め、切り開いていくためにも読解力を養うことは死活的に重要である。
6.企業にとっては、読解力のある新人を採用することが重要である。なぜなら、穴埋めテストをテクニックで乗り越え、その場の空気を読んで集団の中で上手くやることによって生きてきた新人には、厳しいビジネスの世界をわたって行く事はそれだけ困難だと思えるからである。また今後ますます重要となるであろうコンプライアンスの分野には読解力が極めて重要である。

私が受け取った主なメッセージはこんなところである。もちろんそのほかにも、アクティブラーニングへの言及や、教育におけるAIの活用批判、あるべきIT活用についての提言など重要な論点はほかにもある。(IT活用への提言については、企業のBCMにも応用できるような重要な指摘・提案・実践がありここは著者の見識に敬意を表する)
 しかし、私はRSTについて感じたことに絞って以下感想を述べることにする。

1.まず私の試行版の点数は51点であった。得点分布別累計によると、前高後低型で、「大企業ホワイトカラーや教員でこの本を手に取ると思われる層で最も多いタイプ」であるそうだ。「高校1年までには、数学は苦手だな、と感じ始めたのではないかと思います。」というあたりはぴったりで苦笑せざるを得なかった。
ここから続く分析は引用しないが、行動パターンにも切り込んでいて、自分を振り返って頷ける部分があった。
2.一方で、著者の文章には、アマゾンの書評の言葉を借りれば「人を傷つけるところがある」。私なりにその理由を考えると、読解力の重要性は良いとしても、それが高校の偏差値と相関し(それがアカデミックに証明されているなら文句を言うつもりはない)、ひいては良い大学(偏差値の高い大学)に入ることとにつながり、人生を切り開くことに直接役立つと言うロジックが、疑いもなく、若干上から目線で語られている点だろう。一般企業で長年勤めた私などは、「良い大学へ行けたとしてもよい社会人になるとは限らないし、社会で仕事をしていくと言うことはその他の要素もいろいろあり、そんなに簡単な事ではないのでは」と思ってしまう。
 著者は、もちろんそんな事は分かっていると言うだろう。9章の終わりには著者の行きつけの美容師のエピソードが語られている。
「私が長年、髪を切ってもらっている美容師は、高卒ですが、明らかに「自学自習できることができる基礎的・汎用的言語能力」を身につけています。客の望みを自然に聞き出し、それを咀嚼することで、オンリーワンなサービスを提供することができます。(中略) もし彼が望んだなら、有名大学に進むことができただろうと思います。しかし、彼は美容師になり、自分の店を持つことを望み、そして成功しています。それこそが社会にとって望ましい多様性ではないでしょうか。霞ヶ関にも大企業にも就職せず、彼が美容師になってくれたことに、いつも心から感謝しています」
 しかし、この言い方のベースには、良い成績のものは霞ヶ関や大企業に行って当然、あるいは行くべしと言う価値観が、抜きがたく横たわっているのではないだろうか。著者がそれを感じなくても読む人間は感じてしまう。それともひがみ根性だと言われるだろうか。
 しかし、そもそも、そういう価値観から自由な、あるいは少なくとも相対的に見る人間もすでに多くいるのではないだろうか。あるいは、官僚の世界は知らないが、企業の内実から言えば、そこまで学歴にこだわっていられないのが実情だと考える。
一方で、社会の学歴に対する信奉は根強くあるのかもしれない。カリスマ美容師と言う言葉が流通し始めたときにも、まず間違いなく高卒であろう美容師に光りが当たったこと、カリスマになるために学歴が必須ではないことを示したことに着目して肯定的に評価する論評を読んだことがある。ともあれ、学歴が人物の良さに必ずしも相関しないことは、近年の様々な一流と言われる企業人の振るまい、高級官僚の振るまいを見ても明らかであるような気がするのだが。
3.前後してしまうが、RSTの話に戻ると、私は著者の言う通り、文章の読めていない、あるいは読もうとしない人が多いことは否定しない。会社に入って思い知ったことの一つは、文章をまともに読む人はとても少ないと言うことだ。自分自身も膨大な仕事を処理するために、懇切に文章を読むなどと言うことはしていない。とは言え著者の言う通り独立した社会人として社会生活を送っていくためには様々な文章を読みこなす必要、読みこなした内容を元に考える必要があるわけで、だから著者の教育改革論には反対しない。確かに山月記の「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」について思いを巡らすより、こころの先生の未来を照らした「黒い光」に息をのむことより、そもそも新聞や教科書の文章を正確に読むことに重点を移したほうが良いかもしれない。なぜなら、教科書が読めないならそもそも先に進めないし、一方で文学鑑賞は、その意義を否定するものではないが、文化的背景や個々の感受性の問題が大きいだろうから。この点はいろいろな論点があるので、ここでは述べないが、そもそも日本人なのだから、日本ではもっと国語教育をしっかり行うべし、と纏めておく。

 なお、正規版としてのRSTでは、テストの専門家による補正がされているのだろうが、試験版について感じたことを以下に記す。
(1)試験にはテクニックがどうしてもつきまとう。私の年でも受験戦争はあったわけだから、どうしても試験の裏を読んでしまう。素直に読めば良かったのだとあとからは感じるが、深読みして間違えた問題が数問あった。深読みはしてしまうのでは?
(2)問い23の答はやはり間違っているのでは?
これを含めて、21から24はどうも納得のいかない問題が多かった。不勉強ですいません。いつかもう一度、時間をとって考え直してみたいと思う。

                                  2019/11/25