「反哲学入門」 木田元著  新潮文庫

またまた木田元先生の本である。すでに木田先生の本は「反哲学史」を読み蒙を啓かれる思いをしたので、本書を本屋で見かけたときには思わず手が出てしまった。
「反哲学史」より書かれた時代は新しく、著者が大病(胃がんということらしい)を患った後に、インタビューをもとに新潮社のPR誌「波」に連載され、纏められた本と言うことである。
 従って、文体が醸し出すアカデミックな味わいは「反哲学史」の方により深くあるし、より緻密であるかもしれない。しかし、こちらの本の方がより要点を押さえて簡明な言葉で語ってくれるので、僕のような一般人が取り組むには誠に有り難い本である。
「反哲学史」でも感じたところだが、この本のハイライトの一つは、デカルトの理性についての次のようなくだりだろう。
  要するにデカルトの言う「理性」は、神によって我々に分かち与えられたものであり、われわれ人間のうちにありながらもわれわれの持つ自然的な能力ではなく、神の理性の派出所とか出張所のようなものなのです。、 本書134ページ。
 そして次のページでは、実に辛辣でありながら、明晰に次のように記す。
  しかし、デカルトの「理性」と私たち日本人の考えている「理性」の違いを意識している日本の哲学研究者はほとんどいないのではないでしょうか。デカルトを読みながら、当然自分たちも同じ理性を持っていると思い、そのつもりでデカルトを理解しようとしているようです。
 ここで、日本人の考えている「理性」というのは、人間の持っている認識能力(生物として環境に適応するための能力の一種)の比較的上等の部分のこと、である。この説明は納得がいく。そして、デカルトの理性の万能性、普遍性についていまいち納得がいかなかったことに対して、すっきりと理解が及ぶのである。(デカルトを理解できると言う意味ではありません)
 また、日本人の哲学研究者が、この西欧哲学における基本の基本のようなことを十分に理解していないとすれば、これは日本という極東の島国、明治維新以後劇的な価値観の転換を行い、急速に西欧文明を取り入れた日本という国の悲喜劇を象徴する事例の一つと言えるかもしれない。
 そして、実はあまりよく理解できていないけれど、日本という国の中では指導的立場に立ってしまって、曖昧模糊たるもの、場合によっては誤りを導入した人の例はきっといろいろとあるのだろう。
 このような西洋との距離感、決して仰ぎ見るわけではなく、違いを冷静に認識するまなざしは、木田元の大きな魅力である。明治維新以来140年以上経っても、この構えがとれない知識人は多い。
 もう一つ、木田元の素人向けの本の魅力は、西洋哲学の様々な難しい概念を言語の歴史をさかのぼる形で平易に語ってくれるところだ。抽象的概念を抽象的文体で押しつけがましく説明されると、なかなか頭に入らないし、僕って本当に頭が悪いのね、と自己嫌悪に陥るが、言語的・歴史的説明は少なくとも手の届く範囲で考える手がかりを与えてくれる。
 木田元は自伝的な文章の中では必ず、東北大学在学中に毎年語学を集中的に勉強し、仏、独、ギリシャ、ラテンをものにして、哲学研究にはそれくらい最低限必要、と誇らしげに語っているが、なるほど碩学の地力が示されている部分である。
 まだまだ語りたい部分はいろいろあるが、とにかく「哲学」をちょっとかじってみたいな、と思ったら最初に手に取るのに最適の本。ここから「反哲学史」にいっても良いし、あるいはおおざっぱなパースペクティブを得られたと言うことで、「方法序説」あたりにアタックするのも悪くないかもしれない。一方、もし本書を読んでもちっともぴんと来なかったら、哲学の道を歩くのはあきらめよう。だいたい実学とは遠いし、それに著者も言うとおり、一度身に廻ったらなかなか逃れることのできない恐ろしい毒に満ちてもいるのだから。

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)