「ザ フェミニズム」 感想  ちくま文庫

2週目を読み終えた。なぜ二回も読んだかと言えば、面白かったからだ。上野千鶴子小倉千加子という2大巨匠(解説の遙洋子の言)の対談を纏めたもので、笑えるところ多数。もちろん面白いというのはそういう部分だけではなく、頭の良い人たちがお互いへの敬意を失わずに(たぶん失っていないと思うが)考えをはっきり述べ合うという事の、知的な面白さを含んでいる。
 もっとも理解できたかというと、できないというか分からない部分多数。
 僕が男であることということ、僕がかねてよりあえて言えば「凡庸な改良主義者」と自分を考えているような人間であることがその理由でありましょう。
 とはいえ、いわゆる「フェミニズム」系の本は、今まで何冊か読んで面白いことが多かった。例としては斉藤美奈子の「妊娠小説」「紅一点論」とか、新しい視点を与えてくれて新鮮であったし、斉藤本で知った落合恵美子教授(小倉先生には結婚していると言うだけで嫌いと言われ、結婚しているのに専業主婦を論難したと言うことで叩かれているが)の「二十一世紀家族へ」は確かに目から鱗本だった。
 一口で言えば、自分が当たり前、自明の理と思っていることが、あるいは動かせない前提と考えていることが、そうでもないと考え得る視点を与えてくれるという点が面白く刺激的だったのだと思う。
 で、「ザ フェミニズム」であるが、論点多数で、とても感想を書ききれない。少しだけ書くと、結婚制度については、上野先生が言っていることがもう一つよく分からない。先生の結婚の定義。「自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約のこと」(本書163P)また、新聞紙上などいろいろなところで、「自分がどんな男とするのかどうしてお上に届けなければならないのか」という趣旨のことをおっしゃっていると思う。ここでは、国家=権力に対し、自分のもっともプライバシーに属することを届ける事はナンセンスであるという論点と、そもそも身体的性的自由は自由を求めることの基本の基であるのだから、お互いに拘束することを求めることはたとえ相互的なものであろうともナンセンスと言う二つの論点がある。前者については、権力の暴力性、抑圧の圧倒的な協力さというものを真剣に捉え、一方で自由というものを徹底的に考えれば、たどり着きうる一つの結論だと僕も考える。しかし、人間が社会的動物であり、ある共同体・集団に属することが生きることの外形的事実とほぼ同義であることを考え合わせると、現在の社会的集団を網羅的に統括している国家による統制を大多数の人間はある程度は受け入れることを自明の前提として、あるいは自分で気がつかないうちに受け入れざるを得ず、あるいは生きることが集団内に、国家に所属すること、その枠組みに馴致することと不可分なので、実際に受け入れている。だとすれば、すべてを拒否することは不可能だとしても、自由の基本の基にである性的身体的自由を国家に渡さないために結婚を否定するというのは、理屈としては分かる。
 もう一つの論点は、例えば愛し合えるパートナーが見つかったとしてもお互いに縛り合わない、と言うことなのだろうか。「来るものは拒まず、去る者は追わず」みたいな感じ?まあ、拒まずと言っても、嫌なやつは嫌なやつ、ということで拒否はしてもいいけど、お互い気に入ったとしても制度的に縛るなどということはしない、貞節などと言う欺瞞的な価値観はくそ食らえ、と言うことなのだろうか。だから、この点からは事実婚もNOと言うことになる。
 ここのところが、平凡な男性既婚者である僕にはよく分からないところで、パートナーとなった二人がお互いに不満がなく、二人でいることを欲して、お互いの性的貞節を約束していたってそれはそれでいいではないか、と思ってしまう。まあ、それはあくまでも相対的に有利な立場に立っている男性の立場からの言葉でしょう、と言われれば、いえいえそうではありません、と理論的見地からは言えるけれど、結婚生活の実態に即して男性優位な点を検証したかと言えばノーでありますけれど。
 そのほか、雇用機会均等法、専業主婦、子育て、介護、などなど様々なことについて語られているが、一つだけ、一応サラリーマンやっていますので、職場の女性について一言書いておく。
 企業において、女性が仕事をする場はその職種、就業年齢、役職において今後もっと拡がっていくだろうと思う。それは単に法的制約や、対外的圧力という問題ではなく、そういう方策を採らなければ効率的経営ができなくなってきていると考えるからだ。多くの企業で一般職という職掌で働いている女性は、かつてのように簡単には結婚しないし、結婚しても退職しない。とすれば企業が従来以上に彼女たちに無駄なく長く働いて貰う(よりスキルをあげてもらう、生産性を上げて貰う、多様な仕事に対応して貰うなどやりかたはいろいろだろうけれど)ことを考えるようになるのは当然だ。それは小倉先生が指摘しているようにできる女性とそうでない女性の女女格差を助長するかもしれないが、男性についても同様の格差が以前からあるわけだ。僕自身、サラリーマンとしてそのような趨勢に対しむしろ苦労するのは男性の方だ、男性の意識改革こそ急務だと思うが、いやでもそのような方向に進むだろう。
 さて、もう一つ。この本の最後、288Pあたりから書かれている「フェミニズムが目指すもの」についてのやりとりが一番引きつけられた部分だ。上野先生は、「私はフェミニズムが何を目指すのかと聞かれると、なんでそんな問いに答える必要があるのと聞き返します。」と言い、小倉先生も「それは正しい」と応じている。来るべき共産主義社会の姿について語る事に対して禁欲的であったマルクスを牽きながら、上野先生が言う理由は三つ。第一 解放というのは当事者が自己定義するしかない、ということ。第二 現代では、システムを総取っ替えするようなやりかたは、変革の思想としては成り立たなくなっていること。第三 誰かの新しいシナリオは別の誰かには抑圧的になり得るということ。
 政治とは統制された暴力であり、いかなる解放思想も絶望的なまでに抑圧的になりうる。とすれば、お二人が言っていることは、容易に政治的なものに反転しうる反政治主義ではなく、もっと射程の深い言葉の本当の意味での反政治主義なのだと思う。ここのところが、二人の言っていることを理解する上で僕としては一番要となって納得できた部分であった。
 解説では、遙洋子さんが上野さんの優しさ、小倉さんの正直さという言葉を記している。僕もそう感じる部分があったけれど、願わくばその優しさや正直さが僕のようなへたれ中年男性をも包含しうるものであることを願って筆を擱くこととします。ああ、疲れた。