「デリダ」 ちくま学芸文庫

しばらく前に読んだ同じ文庫の「フーコー」のできがとても良かったので、同じシリーズと思われる「デリダ」を買って見た。もっともフーコーについては、今まで入門書レベルとはいえ3,4冊読んでいるのだけれどデリダは初めだった。名前だけは知っていたけれど、どんなこと言っているのか、ちっとも知らずにいた。
 デリダの様々な著作、活動について包括的に解説されているけれど、ここでは、あの八十年代ニューアカブームの頃盛んに言われたデコンストラクション脱構築)について、ちょっと書いてみよう。
 何しろのっけから、脱構築とは明確に定義できないもの、定義したとたん、しっかりとした基盤を持ったとたんそれは脱構築ではなくなってしまうというようなものと開き直られる。革命は目的論的だから、脱構築とは一線を画す、というわけで、なかなか難しい概念だ。
 ちょっと思い浮かんだのは、まあ、まったく与太話ではあるのだが、二十年以上前だろうか、TVでカーグラフィックTV(思えば八十年代的番組であったな)で、松任谷正隆が、疾走する新車のポルシェのエンジン音を描写して、「洗濯機みたいですね」と言って、相方のプロの編集者を絶句させていたことである。
 当時のポルシェはまだ空冷エンジンで、本当に洗濯機みたいにばたばたした音を出していたんだよね。だから松任谷正隆の批評はまったく正鵠を得ていたのだけれど同時にそれは、自動車評論界のポルシェに対する縛りからは絶対出てこない表現でもあったわけだ。
 つまり、はからずして松任谷正隆は自動車評論のお約束をそのとき脱構築したのではないだろうか。全く小さな話ではあるけれど、今僕が縛りと言ったお約束も普段は隠蔽されて見えないわけでそれを浮かび上がらせる働き、にもかかわらず自動車評論として成り立ってはいるというところがいかにも脱構築的では。
 しかし、ではそうやればいいのね、と松任谷正隆が仮に意識して似たような表現を志したとたんに、(「シトロエンのエンジンって、村祭りみたいな音出すんですね」とか、、あまりうまくないか。)それはもう脱構築ではなくなってしまうような、きわめて微妙なものなのだろう。
 もう一つ、デリダの論点は、哲学の隙間、言葉の隙間に視線を及ばせていく。その不確かさ、その飛躍を言葉の、文字の仕組み自体から暴いていく。なんとなく、哲学が常に次の世代に覆されていくということに納得がいったような気がした。いや、印象論でいけませんが。
 本の作りとしては、「フーコー」のほうが、一枚上手、初心者に親切であった。それから、これは好みの問題だろうけれど、60歳ぐらいのデリダの上目遣いの写真が嫌と言うほど多用されているのだけれど、もっとほかの写真はなかったのかね。芸がないな。30ぐらいのなかなか素敵な写真も一枚あったのに。
 しかし全体としては、自分なりにイメージを掴むことができて、買って損はなかったと思いましたです。

デリダ (ちくま学芸文庫)

デリダ (ちくま学芸文庫)