「松田聖子論」 小倉千加子著  感想

1989年初版。山口百恵松田聖子を対比して論じている。山口百恵が、同世代の人間にはよく知られているように、母子家庭に育ち、世間というものに対抗意識を育みながら育ってきたことをその著書「蒼い時」を読み説きながら明らかにしていく。同時に阿木燿子と出会うことで、百恵は方向性を掴み成長したのだと分析する。しかし、阿木耀子の描く女性、彼女自身の生い立ちと重なり(横須賀ストーリー)、一人の男に縛られず(イミテーションゴールド)性的な主体性さえ確立した女性(プレイバックパート2)は、なぜか、そのまま男を振り切って突っ走らず、日本の伝統的な価値観、男女関係の中に回帰していく。
 僕自身、山口百恵と同世代であり(というか同学年)、ファンであったのでこのあたりの歌詞分析は素直に頭に入った。プレイバックパート2において、「真っ赤なポルシェ」を運転して、失踪している主人公は、小倉千加子によれば、日本歌謡史に初めて現れた車を自分で運転する女であるわけだが、そのような主体性を発揮しつつ、最後には「私やっぱり帰るわね」と、男の元に帰ってしまうのである。この点は、山口百恵がテレビで歌っている時代に、僕自身、なんだ、帰っちゃうのかよ、と感じたことを覚えている。せっかくどこまでも走っていきそうな車に乗って、バカな男の元から出てきたというのに、帰ってしまうのである。実際、山口百恵阿木耀子から離れ、「コスモス」、「いい日旅立ち」で、ステロタイプな日本的価値観、日本的美意識に回帰していくのである。それは、彼女の人生においては、トップアイドルスターとしての座をあっさり捨てて、恋人である三浦友和(結婚の時点では山口百恵の方がタレントとしてのランクは上であった)と結婚して引退し、専業主婦となり夫を支えることであった。
 僕の勝手な意見であるけれど、山口百恵が引退したのは正解ではあったと思う。桜田淳子や歌唱力のあった森昌子がその後タレントとして大きな飛躍ができなかった事を考えると、歌が下手では無かったとはいえ、都はるみやあえていえば美空ひばりのような歌唱力があるわけでは無く、女優としても傑出していたわけではない山口百恵が難しい時期にさしかかっていたことが確かな事だと思うからだ。
 さて、松田聖子はアンチ山口百恵、ポスト山口百恵として売り出される。山口百恵阿木燿子の歌詞によって山口百恵になったとすれば、松田聖子松本隆の歌詞によって松田聖子になったのだと分析される。この歌詞の分析がこの本の白眉とも言えるところであって、小倉千加子の才気(フェミニストとしてのものに限らない)がきらきらと輝いている。山口百恵が農村、田舎、日本的なものに回帰していったのに対し、聖子は田舎を抜け出した都会。聖子は車を運転しないが、気弱な男がドライブする車の助手席で実は、男と恋のゲームをコントロールしている。そのような態度は百恵の日本女性の伝統的な「マゾヒズムとセンチメンタリズム」に回帰する姿とは明確に異なっている。
 僕個人としては、松本隆の詩の方が、阿木燿子より洗練されていて、まとまりがあり、何より情念の世界から遠く離れたきれいな世界で好みに合う。
 さて、長々と書いたが、この本で、1カ所だけ小泉今日子と言う言葉が現れる場所がある。その部分を引用する。
「聖子の歌に生活感覚が欠如しているのは、今の時代にまだ「生活感覚の欠如している女の子」しか、<田舎>から離れられないことを松本隆が知っているからです。この記号を松田聖子以上に過激に体現しているのが、小泉今日子です。」(単行本:松田聖子論 196ページ)
 ここでいう田舎とは、日本人の土着的メンタリティであり、その意味で日本そのものである。松田聖子は日本的な、百恵が回帰した因習的女性の生き方とは無縁な空間を、たとえそれが人工的なものであろうと体現しているのであり、小泉今日子はそれを過激にしている、すなわち、日本的なもの、土着的なもの、情念的なもの、マゾヒスティックでセンチメンタルなもの、からより遠い存在、無縁であり得る存在としての記号として有るということを言っているわけだ。
 この部分の前で、小倉千加子はこう言っている。
「男は、<都市>の記号を背負う職業に就いていようが、インテリであろうが、年が若かろうが、そんな条件に一切関係なく、私的で閉鎖的な空間の中では、女に茶を入れさせてしまうのです。」(同:195P)僕はここでかなり笑った。つまり、男は女にとって<田舎>なのである。右翼だろうが左翼だろうが、ノンポリだろうが年寄りだろうが若かろうが、<田舎>だといっているわけだ。フェミニスト小倉千加子の面目躍如たる部分だが、そう考えると、小泉今日子が、男の視線に応える方向での進化をせずに、どちらかというと同性を意識していたとインタビューで応えていること、男の子は苦手、と言っていることと附合する。アイドル初期にショートカットにしたことしかり、オバかな顔を隠さず積極的に表に出していることしかりである。(念のために書いておくと、男嫌いとは違う。)だから、確かに小泉今日子は日本的なもの、<田舎>に反発し、飛び出している記号であると言うことは分かる。しかし、それは松本隆が描く世界ほど調和した、カラフルで美しい世界ではない。もっとざらざらした、何ものであるか分からないが生の確かな感触を確かめようとしている執拗で切ない志向のように感じられる。例えば、彼女は1986年から1987年にかけての「明星」への連載をもとにしたフォトエッセイ(と言っても断片的なものであるが)を1988年に出版しているが、その題名は、「人生らしいね」である。この湿り気、ナイーブな生真面目さはあえて時間性を消し去った松田聖子の歌の世界とは対極的なものである。
だから、小倉千加子言うところの小泉今日子の記号としての過激さは、実は不安で不安定なものだ、と僕は思う。
 さて、百恵には阿木燿子、聖子には松本隆、とその世界を作り出した、アーティストである本人と不可分な作詞家がいるとしたら、キョンキョンには、誰がいたのだろう。きちんと聴いてないが、秋元康?いや、その世界全体をつくるほど曲を提供していない。Koizumi in the house は、それこそ過激である意味で小泉今日子らしいアルバムだが、例えば代表曲の近田春男のFade outをきいてみると 歌詞はそれこそ<田舎>の歌だ。助手席に座って受動的な立場に終始する女の歌である。
あるいは、彼女の世界を作った作詞家は本人? たしかに結構作詞している。しかも、「あなたに会えてよかった」というような重要な曲を書いている。ここは小倉千加子を参考に、もうちょっと考えてみたい。