「単純な生活」 阿部昭著 小学館  感想文

小学館のP+D BOOKSという新しいスタイルの本である。ペーパーバック+デジタルだそうで、本の作りは、確かにペーパーバックで六五〇円と安い。
阿部昭は、この本の終わりに書かれた紹介によれば、1934年生まれ、1989年没である。
一般にはおそらく短編小説作家として知られているのかもしれない。私の朧気な記憶では、昔、短編集が話題になって売れた時があったと思うが、定かではない。
 さて、私はこの小説を去年の夏の終わりから、枕頭の書としてゆっくり、楽しく読んだ。楽しく読んだ理由には事情があって、著者のこの小説は、私小説+エッセイ+評論のようなスタイルであって、作家としての生活や、住んでいる街のことや、家族の事や、友人知人の事、旅の記録などがストーリーなど無く描かれているのであるが、舞台となっている街が、かつて私が若い頃サラリーマンとして暮らした街であり、また現在も私にとって生活圏と言って良い、かなり近い場所であるので、この本を読むと、著者の描く風景や町並みが、よく見知った街として私の頭に浮かんでくるのである。ただ、著者がこの小説を描いたのは1980年頃と思われるが、現在と街の姿は大きく違って居るし、私が若い頃過ごした時代も、10年ほど後になるからやはり違っている。
 だから、見知った街の姿と行っても、著者が生きていた時代の街、今残っている街、かつて私が見た記憶の中にある街とが重なり合っているし、さらには著者の記憶の中の、戦前を含めた街が重なって、私には普通の読書では得られない記憶の重なり合いが次々に浮かび上がってくる不思議な読書体験となった。
 例えば、著者が買い物をしたデパートは、私が若い頃ジャケットを買ったデパートだと思われるが、随分以前に閉店してしまって、今では商業施設の入ったマンションになっている。著者が行きつけであった駅前の居酒屋は、わざわざ店の造作まで書いてくれているのでそうと察せられるのであるが、私も何度も行った、この街では有名であった店に違いないと思う。
あの店も、店主が年老いて閉店し、今は別の名前の店になっているが、噂ではかつての良き居酒屋の雰囲気は望むべくもないそうだ。
 著者とはもちろん赤の他人であるし、接点はまるで無い。著者が描く小説の中の世界が私が歩いたことのある街、今でも歩くかもしれない街である事による独特の楽しさは、単なるミーハー的なものなのかもしれないが、うがって考えれば、私が生きている街でもまた別の時代の別の人・家族の確かな生活と人生があったと言う重みやつながりを感じると言うことなのかもしれない。
 翻って考えると、私小説的に家族や友人知人の事や、近所の事を書くとしても、日記を書けばそれが文学になるわけでも無いし、普段の会話には出てこない暴露的なことやセンセーショナルなことを書けば文学になるわけでも無い。少なくとも阿部昭の小説は、事実を書くことが真実性を保証するという素朴な私小説の理論とは遠いのであって、だらだらとした日常に頼った小説では無い。そこには作家としての素材と方法論の吟味が厳しいほどにあるのであって、そのような殆ど倫理性を帯びた作家の姿勢がまた一見日常を映したノンシャランなスタイルに見えながら、緊密で陰影を帯びた作品に仕上がっている理由だろう。
 近くの街にかつて住んでいた作家という部分の前置きが長くなってしまったけれど、自立した文学作品として立派なものであって、滋味深く、大いに愉しんだ作品であった。
 ところで、作者は五四歳で亡くなっている。作品からは心臓が悪かった事が察せられるが、もっと長生きして、狷介であっても読み応えのある作品を沢山書いて貰いたかったと思ったものであった。合掌。

 

単純な生活 (P+D BOOKS)

単純な生活 (P+D BOOKS)

  • 作者:昭, 阿部
  • 発売日: 2018/01/09
  • メディア: 単行本