「アドルフ」  コンスタン作 大塚幸男訳 岩波文庫

1964年の訳出である。文学入門的な本で、フランス恋愛心理小説の名作として取り上げられる一作である。三島由紀夫もその「文章読本」の中で取り上げている。ちなみにコンスタンはナポレオンと同時代人である。
風景描写や、人物描写、主要な人物以外の動きなどは極力省略して、恋愛心理に集中した小説である。文体も、翻訳で知るのみであるが、修飾の少ない、簡潔なものである。
この小説の特徴は、岩波文庫のカバーでも指摘されているとおり、恋愛小説と言いながら、全十章に及ぶ内容の、二章までで恋人を得てしまうと、あとは如何にその恋から逃れるか、と考えながら逃れるに逃れられない心理を描いていることである。遊びなら遊びとして別れてしまう事もできず、ついには相手の女性を死に至らしめてしまう、というストーリーであり、その理由を主人公は「性格」に帰している。
それだけに要約してしまうと、還暦を過ぎた私などからは、愚か者と一喝したい気持ちになる。しかし、人間とは愚かなものであり、恋愛が言わば原理的に愚かな行為であるなら、私の人生経験を頼んだ一喝など無意味であり、むしろ人間理解の浅薄さを示すものでしかないのかもしれない。
優柔不断な主人公であるが、その心理分析は細密である。
「私には彼女が私よりもすぐれているような気がした。彼女にふさわしからぬ自分がさげすまれた。愛して愛されないのは恐ろしい不幸である。しかしもはや愛していない女から熱烈に愛されることは実に大きな不幸である。(第五章)」
 しかしそのような事態を招いたのは主人公自身の振るまいなのである。
その報いとして、女性を死なせてしまった主人公は、前途有望とみられた将来を棒に振って、官途にも就かず、かといって優れた著作を残すわけでもなく、下男を連れて安住の地を見いだすことなく旅を続けているようだ。
 この、主人公と、その犠牲になる恋人を描くのに、しかし作者コンスタンは周到にプロットを組み立てている。例えば女性の境遇。彼女は亡命ポーランド貴族の娘で、囲い者であるが、子供もあり、囲っている貴族の旦那に協力して財産を保全したり、旦那も感謝して、社交界デビューさせたり、という、零落しながらもう少しで表舞台にでられそうな微妙な立場である。
一方主人公は、厳格だが内気な父親の影響下で、己を頼みながらも、俗っぽくは振る舞えない若者としてつくられる。
冒頭の、なぜこの文書が公開されるに至ったかの設定も、極めて小説的な興趣に富んでいる。つまりコンスタンはそれだけ巧む事のできる手練れなのである。その点は、一見、不幸な恋愛心理に集中して燃焼し尽くしているかに見えるこの小説を読む上で考えておいていい点だと思う。
当たり前の事だが、作者と主人公は別物なのだ。熱烈な告白に見える時こそ、用心しなければならない。
 では、コンスタンは職人芸のようにこの小説を組み立てたかと言うとそうではなくて、作者が周到に用意した舞台で苦悩する主人公の心理に、作者自身の血が通っているのであろう。芸術作品の秘密とはそのようなものなのだろうと改めて感じた。