「美味しいごはんが食べられますように」  高瀬隼子著 文藝春秋掲載版 感想文

令和4年上半期第167回芥川賞受賞作である。芥川賞受賞作を好んで読んでいるわけではないのだけれど、当代の一流作家と思われる方々の選評を読むのが面白くて、掲載号の文藝春秋をなんとなく買ってしまう。ところが、小説というのは実に好みの分かれるもので、食わず嫌いと言えばそれまでだが、素人の私は肝心の受賞作は大概数頁読んで止めてしまう。選評は面白くて読むのに。以前読み通した受賞作で印象に残っているのは、「コンビニ人間」で、これは面白かった。プロの作家というのは大したものだ。好みでない作品、ろくでもない作品もあるだろうに読み通し、作品の長所・短所を捕まえて批評するのだから。

さて、本作は読み通すことができたし、それだけでなく、興味深く面白く読むことができた。この小説が職場小説であり、仕事場の人間関係小説である事が、サラリーマンである私が興味深く読めた理由の一つなのだろうと思う。
逆にどうしても、私が勤めている職場と比べてしまうし、マネージャー業務もそれなりに長くやってきたので、これはないな、とか、自分だったらこうする、などと、あまり文学的でない感想が次々に浮かんできた点は文学鑑賞として良かったのかどうかわからない。
 物語は、芦川さんと押尾さんと言う女子社員、二谷という男子社員の3人を中心に3人の上司の藤さんやパートのおばちゃんが絡んで進んでいく。
冒頭の、藤さん(中年男性)が口を付けた飲物を、そう言われてから飲んでみせる芦川さんが強烈で、暫く先を読まずに日を置いたけれど、読み進めるとグロいところに進むことはなく、安堵した。
 冒頭のエピソードに現れるように、芦川さんはある種の個性の持ち主である。一口で言えば、芦川さんの生存戦略は、厭な仕事は徹底してやらず、(この徹底ぶりが彼女の強さだ)仕事ができないことを、身体の弱さや、ケーキを作って持ってくることでごまかしてしまう事である。仕事では決して尊敬されないが、なんだかんだと職場で位置をしっかり確保するタイプである。自分が厭なこと、つらいこと、失敗したことの尻拭い、などは絶対しない。頭が痛くなってしまうし、休んでしまう。また、仕事で、より良い仕事をするために頑張る、頭を使う、などと言うこともしない。
 押尾さんは、そんな芦川さんが嫌いだし、二谷に対し共同して芦川に対抗しようとする。二谷も芦川が尊敬できない、とわかっているのだが、彼は結構女性に対していい加減な男で、芦川さんと寝てしまうし、芦川さんが定期的にやってきて料理をつくるようになって行く。必ずしもそのことを喜んでいるわけではないのに、芦川さんに絡め取られるように関係を深めていく。
 文学的でないことを書くと、私が藤さんの立場だったら、① 女性社員に限らず社員の持ち物とはっきりしている飲物に勝手に口を付けることは絶対にない。私の気質として、そういうことは嫌いだ、と言うことと、もう一つは、現代の職場は、そんな事が赦される場ではないと言いたい。少なくとも私の勤める職場ではそんな事は絶対にない。② 芦川さんがケーキを持ってくることに対して、面談して止めろという。③芦川さんの頭痛にたいして、少なくとも面談などを繰り返し、病状を確認し、改善することを求める。
「だめな社員に対する労務管理入門」のような話になってしまったが、経験上、これでうまく行くか、というとそういうわけでもない。駄目な人は駄目なままというのが大半である。しかし、駄目な人を職場で容認する度合いは、藤さんほど甘くしてはいけない、と言うのが私の経験からの結論だ。
その点で、押尾さんを辞めさせてしまったのは惜しい。こういう人が本当に仕事をしてくれるのに。
で、二谷は調子良いやつだなあ。こんなでいいのか。というか、調子よくやっているつもりで、芦川さんみたいな女性に引きずられているじゃないか。嫌悪しているのに。
 と言うわけで二谷のことは理解できないし、好きになれなかった。
だって、いきなり、君とは寝ないよ、とか言ったりさ。いかん、口調がすっかりカジュアルになってしまった。職場の乗りになってしまった。
 
 この小説の魅力を考えると、実は上記のようには簡単に人物を類型化できないところではないかと思う。藤さんは、小心翼々たる中間管理職だが、ステレオタイプではなく人物像が浮き出して感じられる。二谷も大学時代からの文学への思いをどこかに持っているようである。60を過ぎた私のようには人生を単純化して見ることはできないであろうし、芦川さんに対する感情も言わば愛憎半ばするものがあると言えば言えるだろう。
芦川さんとセックスをする事と食事を作って貰うことが習慣化して、その吸引力が自分でも意外に思えるほど、彼の足を絡め取っていると言えなくもない。
 芦川さんはモンスターだ。多分自分本位だし、嘘つきだし、でも握った自己の利益は離さないタイプだ。本当にいいのか二谷、と心配になってしまう。
 押尾さんも、複雑な内面を抱えている。でも私が職場の上司だったら、一番彼女を大事にするな。そういう信頼関係を保てるか、なかなか大変だが。

 総じて、職場小説として面白かったし、上記のように人物が類型化せずに浮き出している点が優れた点だと思う。おじさんの視点を盛り込めたらさらに良かったと思うけれど、それは無い物ねだりというものかもしれない。