僕にとって原宿は遠かった

昨日のつづき、と言うか補足。
小泉今日子、「原宿百景」において、文章は平明且つ明確で、パンダのananをさらに深めようという気合いの感じられるものなのだけれど、それは個人的な事を妙に糊塗せず語る、と言う点でも、母との関係を客観的に掘り下げた点でも見事だけれど、その種となるものはすべてパンダのananにあった事も事実。この時点で、例えば結婚について語る事だってできたはずだがそういうことはしていない。そのあたりが、僕としてはちょっと食い足りなく感じられる点ではある。
で、原宿。この対談では、ほんとに内輪のサークル内だけの話って言う感じがちょっとしてしまう。原宿に過去、50年を超える人生で多分5回ぐらいしか行ったことのない、ファッションに興味の無い僕には、どうしようもない世界で、だから悔しいわけでもないし、困るわけでもない。つまり、小さい世界の話、って言ったらいけないのかな。
もちろん小泉今日子は例えば和田誠との対談の中で、おっ、と思うような鋭い発言をしていてそれはなかなかなのだけれど、全体としては僕には遠い世界の話で、なによりそれがこまらないというところが、小泉今日子研究においては困ったものなのでありました。

原宿百景 (SWITCH LIBRARY)

原宿百景 (SWITCH LIBRARY)

あ、この表紙の写真はよい。彼女のタレントとしての最大の武器である無敵の笑顔を封印した、等身大の私、っていう感じの覚悟が感じられる写真である。

「原宿百景」を読了

長い時間が掛かった。文章はやはり達者。しかし分量は少なく、また題材も大きく言えば、pandaのananの範囲を出るものではない。あとは原宿を舞台に小泉今日子を巡る人々との対談。それも八十年代、九十年代を回顧する形が多いから、まあ、どちらかと言えば後ろ向き? 決してセンチメンタルではないが。ということで、一言で言えば、僕にとってはパンダのan・anを超えるものではなかった。
 うーむ。

「それってどうなの主義」 斎藤美奈子著 文春文庫 感想文

だいぶ前に、古本屋で百円で買ったもの。主に九十年代の新聞雑誌に書いた雑文・評論?を集めたもの。という種類の本は、なかなか焦点が定まらずにつまらないと言うことが往々にしてあるわけで、この本もそういうところがないわけではない。
あと、斎藤さんの題をつけるセンスが、いまいちずれている、それも本人の意識しない、例えば人で言えば体格とか、後ろ姿とか言う部分でちょっとずれている、ずれていると言って悪ければ著者が意識していない効果が出ているような気がする。 面白いところを狙っていながら意外に角が出ているような。まあ、角が出ていてもいいわけではあるが。僕が「それってどうなの」という言い回しが好きではないだけかもしれないけれど。
「ものはいいよう」でも感じたのだけれど、説教くさくなってしまうと、言っていることが正しいなと思っても、とたんに読む気を無くしてしまうのである。
 記事によって、その後10年あまり後の変化についてフォローが入っているところが本を丁寧に作る著者らしい。読み進むにつれて、なるほどそんなこともあったな、と思うことも多く、楽しく読めた。
 僕なりに突っ込みたい話題はいろいろあるが、実はこの本の白眉は、池上彰による解説だったのかもしれない。
 著者の批評精神を称揚し、文体を模倣して見せ、かと思うと部分的には著者の知見を自己の取材体験によって訂正し、石原都知事に対する著者のスクウェアな批判的態度を褒め称え、軟弱な態度に見せて自分もさりげなくチンピラ都知事と言い放つ!!
 チンピラ都知事ですよ、チンピラ都知事斎藤美奈子どころではない。骨があるなあ。
 もっとも僕は石原都知事がそれほど嫌いではないのだけれど。(政治家としては評価しません)
 解説を読んだだけでも、この本を読んだかいがあった。いや、本文も面白かったけれど。

それってどうなの主義 (文春文庫)

それってどうなの主義 (文春文庫)

「俳句はかく解しかく味う」 高浜虚子著 岩波文庫

だいぶ前(二ヶ月ぐらい前?)に、ついでに買った本である。俳句はあまり好きではない。どう理解しても、「いや、それはね・・・」と通人が、あるいは半可通がしたり顔で訂正してくるような雰囲気を勝手に感じているからである。
しかし、日本に生まれ育って、日本で教育を受けたものである以上、ざっと数えても五十以上の俳句は諳んじているし、そのほとんどは芭蕉の句である。少しはどんなものなのかな、と言う興味がないではない。
そんな理屈はともかく、この本は枕元において、寝る前にしばし浮き世離れした、かつ物静かな気分に浸れればそれでいいと言う思いで買ったものである。
 ところが、存外、面白く読めた。意外にあたりであった。こういうことがあるから、本との出会いというものは面白いのである。
 まず虚子の態度が非常にはっきりとしている。悪い句の例を出して、どういうところがいけないかと言うことを明瞭に述べる。また良い句についても同様である。
最終部分では、数句についてさらに詳細に解し、解説する。なるほどそういう風に解し、味うものなのだな、ということが素直に頭に入ってくる。もちろん、虚子の見方だけが、すべてではないだろうが、近代俳句においては、一番オーソドックスな広い、未払いの良い道筋なのだろうと感じられる。普通俳句の短い解説など見ると、何でも褒めるような感じで、歴史的な位置づけや価値がよくわからなかった。俳句を見る上での羅針盤を得た思いである。まあそれだけ不勉強であったと言う話だけかもしれないが。一般社会人としては、有り難い本であった。

俳句はかく解しかく味う (岩波文庫)

俳句はかく解しかく味う (岩波文庫)

「銃・病原菌・鉄」 読了

漸く、下巻を読み終えた。下巻では、文字の発生についての考察が面白かった。読み終えて思うことの一つは、著者が言いたいことを簡単にまとめることの愚かさである。大変に広い範囲の時間、空間、学問の範囲にわたっての知識を渡り歩くようにして綴られた本である。安易にまとめることは簡単に反証が見つかるだろうし、まとめる事が必ずしも必要ではないとさえ思える。
このような知のありよう、700万年という人類史、世界全体の地理的拡がりを捉え、特定の時代にとらわれた歴史認識(例えばヘーゲル)の範疇から出て、自然科学の知見をあるいは進化人類学の知見を縦横に利用し、しかも謙虚で、アカデミックな世界に閉じこもらず、フィールドでの探査を重んじる、といった知のありようが、21世紀的であり、また僕たち皆に求められているものだ、と感じる。白人優位主義も、先進国、途上国と言った区別の背後にあるイデオロギーもみんな一緒に、もう古い、と言ってしまえるような知的パースペクティブ。そのようなものこそ、学ぶべきものなのだろうと考えた。

「超マクロ展望 世界経済の真実」 水野和夫 萱野稔人著 集英社新書

ゴールデンウイークの移動時間と移動先での時間を使って、読了した。エコノミストと若手哲学者との対談本。対談本というところが新書らしいところで、作りが安い感じがしないでもないが、読みやすくテーマも絞られている。
ここでのキーワードは、「交易条件」・「利子革命」である。さらに、景気循環論に頼らず、資本主義経済体制を歴史的視点で見て、永続するシステムとは見ない視点が重要であるとする。交易条件とは、どれだけ効率よく貿易ができているかという指標である。簡単に言えば原油を中心とする原料価格が高騰すれば条件は悪くなり、利益は出にくくなる。利子率は、長期的には利潤率に一致し、歴史的に広義の資本主義的経済が成熟しすると、利益を大きく取れなくなり、低下する。歴史的には、利子率の低下と附合して、経済の覇権がイタリア、大航海時代のスペイン・ポルトガル、さらにオランダから世界の海を制覇したイギリスに移ったとする。以来、大きく言えばイギリス、そしてアメリカの覇権が続いてきたが、いよいよそれが終わりかけているのでは無いか、というのが水野氏の見立てである。
したがって、循環論に基づく景気回復論、リフレ派と言われる貨幣供給をとにかく増やせば景気は回復するという考え方を批判する。それらは歴史的視点を欠いているからだ。
また、経済における国家の役割を強調する。リーマンショックにおいても、結局国が金融機関を助けたこと、金融機関自体がそれを望み、新自由主義的経済に反する振る舞いをしたことが、それを証しているとする。
国家の役割では、新しいルールを作る役割が強調される。国家とは自国に有利な経済ルールを考え出し、プレイヤーを説得する(インテリジェンス)力が必要とされる。近年では金融におけるBIS規制などの例が挙げられている。
 ここで述べられていることがすべて正しいかどうか、と言うことよりも、現在の経済論調、政治家の景気回復論をみると少なくとも、こういう歴史的視点を持って考えてみることが必要ではないかと思われる。リーマンショックの時にも書いたことだけれど、新興国市場を求めて経済が浮揚したとしても、その新興国の経済が成熟したらいったいどうするのか、ということは誰でも思い至ることではないだろうか(この本でも触れられている)。
この本でも、かつて柄谷行人が言ったように、少なくともこのままの経済体制ではあと数十年で資本主義経済は破綻するのではないか、という危惧が述べられている。
一言で言えば、低成長・あるいは成長0の循環的経済である事を自明とした経済運営について、知恵を巡らせなければならないと言うことなのかもしれない。
えらい時代に巡り会わせたかもしれないが、望むらくはそれを奇貨とするぐらいの知的タフネスを持ちたいものだ。

「松田聖子論」 小倉千加子著  感想

1989年初版。山口百恵松田聖子を対比して論じている。山口百恵が、同世代の人間にはよく知られているように、母子家庭に育ち、世間というものに対抗意識を育みながら育ってきたことをその著書「蒼い時」を読み説きながら明らかにしていく。同時に阿木燿子と出会うことで、百恵は方向性を掴み成長したのだと分析する。しかし、阿木耀子の描く女性、彼女自身の生い立ちと重なり(横須賀ストーリー)、一人の男に縛られず(イミテーションゴールド)性的な主体性さえ確立した女性(プレイバックパート2)は、なぜか、そのまま男を振り切って突っ走らず、日本の伝統的な価値観、男女関係の中に回帰していく。
 僕自身、山口百恵と同世代であり(というか同学年)、ファンであったのでこのあたりの歌詞分析は素直に頭に入った。プレイバックパート2において、「真っ赤なポルシェ」を運転して、失踪している主人公は、小倉千加子によれば、日本歌謡史に初めて現れた車を自分で運転する女であるわけだが、そのような主体性を発揮しつつ、最後には「私やっぱり帰るわね」と、男の元に帰ってしまうのである。この点は、山口百恵がテレビで歌っている時代に、僕自身、なんだ、帰っちゃうのかよ、と感じたことを覚えている。せっかくどこまでも走っていきそうな車に乗って、バカな男の元から出てきたというのに、帰ってしまうのである。実際、山口百恵阿木耀子から離れ、「コスモス」、「いい日旅立ち」で、ステロタイプな日本的価値観、日本的美意識に回帰していくのである。それは、彼女の人生においては、トップアイドルスターとしての座をあっさり捨てて、恋人である三浦友和(結婚の時点では山口百恵の方がタレントとしてのランクは上であった)と結婚して引退し、専業主婦となり夫を支えることであった。
 僕の勝手な意見であるけれど、山口百恵が引退したのは正解ではあったと思う。桜田淳子や歌唱力のあった森昌子がその後タレントとして大きな飛躍ができなかった事を考えると、歌が下手では無かったとはいえ、都はるみやあえていえば美空ひばりのような歌唱力があるわけでは無く、女優としても傑出していたわけではない山口百恵が難しい時期にさしかかっていたことが確かな事だと思うからだ。
 さて、松田聖子はアンチ山口百恵、ポスト山口百恵として売り出される。山口百恵阿木燿子の歌詞によって山口百恵になったとすれば、松田聖子松本隆の歌詞によって松田聖子になったのだと分析される。この歌詞の分析がこの本の白眉とも言えるところであって、小倉千加子の才気(フェミニストとしてのものに限らない)がきらきらと輝いている。山口百恵が農村、田舎、日本的なものに回帰していったのに対し、聖子は田舎を抜け出した都会。聖子は車を運転しないが、気弱な男がドライブする車の助手席で実は、男と恋のゲームをコントロールしている。そのような態度は百恵の日本女性の伝統的な「マゾヒズムとセンチメンタリズム」に回帰する姿とは明確に異なっている。
 僕個人としては、松本隆の詩の方が、阿木燿子より洗練されていて、まとまりがあり、何より情念の世界から遠く離れたきれいな世界で好みに合う。
 さて、長々と書いたが、この本で、1カ所だけ小泉今日子と言う言葉が現れる場所がある。その部分を引用する。
「聖子の歌に生活感覚が欠如しているのは、今の時代にまだ「生活感覚の欠如している女の子」しか、<田舎>から離れられないことを松本隆が知っているからです。この記号を松田聖子以上に過激に体現しているのが、小泉今日子です。」(単行本:松田聖子論 196ページ)
 ここでいう田舎とは、日本人の土着的メンタリティであり、その意味で日本そのものである。松田聖子は日本的な、百恵が回帰した因習的女性の生き方とは無縁な空間を、たとえそれが人工的なものであろうと体現しているのであり、小泉今日子はそれを過激にしている、すなわち、日本的なもの、土着的なもの、情念的なもの、マゾヒスティックでセンチメンタルなもの、からより遠い存在、無縁であり得る存在としての記号として有るということを言っているわけだ。
 この部分の前で、小倉千加子はこう言っている。
「男は、<都市>の記号を背負う職業に就いていようが、インテリであろうが、年が若かろうが、そんな条件に一切関係なく、私的で閉鎖的な空間の中では、女に茶を入れさせてしまうのです。」(同:195P)僕はここでかなり笑った。つまり、男は女にとって<田舎>なのである。右翼だろうが左翼だろうが、ノンポリだろうが年寄りだろうが若かろうが、<田舎>だといっているわけだ。フェミニスト小倉千加子の面目躍如たる部分だが、そう考えると、小泉今日子が、男の視線に応える方向での進化をせずに、どちらかというと同性を意識していたとインタビューで応えていること、男の子は苦手、と言っていることと附合する。アイドル初期にショートカットにしたことしかり、オバかな顔を隠さず積極的に表に出していることしかりである。(念のために書いておくと、男嫌いとは違う。)だから、確かに小泉今日子は日本的なもの、<田舎>に反発し、飛び出している記号であると言うことは分かる。しかし、それは松本隆が描く世界ほど調和した、カラフルで美しい世界ではない。もっとざらざらした、何ものであるか分からないが生の確かな感触を確かめようとしている執拗で切ない志向のように感じられる。例えば、彼女は1986年から1987年にかけての「明星」への連載をもとにしたフォトエッセイ(と言っても断片的なものであるが)を1988年に出版しているが、その題名は、「人生らしいね」である。この湿り気、ナイーブな生真面目さはあえて時間性を消し去った松田聖子の歌の世界とは対極的なものである。
だから、小倉千加子言うところの小泉今日子の記号としての過激さは、実は不安で不安定なものだ、と僕は思う。
 さて、百恵には阿木燿子、聖子には松本隆、とその世界を作り出した、アーティストである本人と不可分な作詞家がいるとしたら、キョンキョンには、誰がいたのだろう。きちんと聴いてないが、秋元康?いや、その世界全体をつくるほど曲を提供していない。Koizumi in the house は、それこそ過激である意味で小泉今日子らしいアルバムだが、例えば代表曲の近田春男のFade outをきいてみると 歌詞はそれこそ<田舎>の歌だ。助手席に座って受動的な立場に終始する女の歌である。
あるいは、彼女の世界を作った作詞家は本人? たしかに結構作詞している。しかも、「あなたに会えてよかった」というような重要な曲を書いている。ここは小倉千加子を参考に、もうちょっと考えてみたい。