「日本人が誤解する英語」 書評 の前に。

英語好き、というより英語学習好きと言った方が良いかもしれない僕はこんな年になっても性懲りもなく英語学習本を買ってしまう。で、上記の本も駅の本屋でふらふらと買ってしまったものだが、珍しく読み通した。部分的には2度も。早速書評に入りたいところだが、その前に僕の英語に対する心構えについて簡単に述べておきたい。
 それは、ノンネイティブとして、日本人として、旅行やビジネスや勉強に必要な実用的な英語力があればそれでいい、と言うものである。もっと言うと、ネイティブがなんと言おうと日本人としてしっかり自己主張すればいいじゃん、というものである。
 それはほとんど「構え」の問題である。僕たちは絶対にネイティブスピーカーではないし、なれない。(僕はなりたくもない)したがってネイティブスピーカーをお手本にする限り、絶対に追いつけないし、新しいネイティブ表現はどんどん生まれているし、切りががない。つまりいくら勉強しても原理的に追いつかないのである。
 これは少々大げさに言えば、たとえばジャズミュージシャンやその他の西洋文物の受容を志した人々に共通の問題であると思うが、相手を仰ぎ見る構えをとってしまえば、こっちのうまいが、あっちの下手にかなわない、という文化的電位差を生んでしまうのである。つまり技量的に仮にこっちが凌駕していても、そんなこと言ってもオイラたちはホンモノだもんね、と言われたとたんにシュンとなって、俯いてしまうような構え。
 このことに悩んだ日本人は多いはずだ。悩まないですんでいるような学者、芸術家は鈍感でおめでたい人たちだ。確かに西洋の文物の紹介が生業となっている、日本で一般的になる前にいち早く海外の動きを捕まえて紹介すること自体に嬉々として携わっている人は多いけどね。いわば常識的知識としてさらに言えば、明治以来日本は進んでそういう構えをとることによって、急速に西欧列強にキャッチアップしてきたわけだけれど。
 ここで、焦点を英語にもう一度絞ると、「英語はグローバル時代には必要だけど、ネイティブには絶対なれないし、うまくなれないな、悲しいな、シクシク」でもなく「ネイティブには絶対なれないけれど、努力するもんね、努力すること自体は誰にも負けないんだ!」でもない「構え」をとりたいと思う。ちなみにこれに近い立場をより論理的に、あるいはイデオロギッシュに展開しているのが「英語ではなく、グロービッシュを学ぼう」という最近出てきた主張である。
 最低1500ぐらいの語彙があれば何とかなる、伝えたいと思ったことが伝わればいい、難しい構文、表現は使わない、と言うことをはっきりと打ち出したものである。だいたい世界で英語を使っているのはノンネイティブの方が圧倒的にマジョリティではないか、とグロービッシュの主張者は言うのだ。
 僕はそれほどイデオロギッシュではないけれど、(グロービッシュのもともとの主張者はフランス人らしく、かなり反英米のにおいがする)自分の経験から、「ネイティブのしゃれた表現」を追いかけたりしても自分にはもう意味がない、(50を超えた時々英語を使うだけの日本に住む英語好きのサラリーマンにとって。)と思うようになった。まあ、楽しめる範囲で英語の勉強は続けるつもりだけど、構えはもう変えるつもりなのだ。頭を下げるのではなくて、握手するならもう十分できるってわかってきたし、それこそ「心構え」の問題なのだからね。