「史的システムとしての資本主義」 ウォーラーステイン著 川北稔訳 岩波文庫

ウォーラーステインアメリカの学者で、1930年生まれ、ポーランドユダヤ人のとのこと。2019年に亡くなっている。世界システム論に関する膨大な著作がある。あれこれの本の中で名前が出てくるので何か簡便に分かる著作はないか、と探したら2022年に文庫本が出ていた。彼の世界システム論について何も知らなかったので、全体を概括的に理解するためにはいいのでは、と手に取った次第である。
 270頁ほどの厚くはない文庫であるが、様々な論点が圧縮されており、難解・難物ではあった。素人には十全に理解できたとは言えないが、私が興味深いと思った点を記す。

1.史的システムとしての資本主義では、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として用いられる。
 あれこれの思惑、例えば人の命、福祉、安全などがぶつかり合ったとき、第一に優先されるのは利益の増大であり、資本の増殖であると言う事だ。それは、この500年ほどの間に世界に拡がり、それを司る立場の人はますます居丈高に振る舞うようになっているとされる。
 この点は、私としては深く納得する点である。例えば生命について、私たちの社会で第一に尊重されているかと言えば、Noである。自分たちで武器を作れないテロ組織が現代の高度な武器(ミサイルなど)を駆使しているのは、それを作る組織、流通させる武器商人がいるからである。そこにはビジネスによって利潤を積み上げる、まさに資本主義的な仕組みが働いている。直接的な比較衡量は意識に登らずとも、社会の仕組みとして人の生活と命は二の次になっていると言わざるを得ない。

2.史的システムとしての資本主義が成立すると、従来からの分業が労働の価値評価と結びつけられた。
 単純化して言えば、利益をより多く生み出す労働が価値が高いとされ、もっぱら成年男性の仕事とされた。一方で、家事労働的な、なくてはならないが利益を生み出す事の少ない仕事はその地位を貶められ、女性の仕事とされた。史的システムとしての資本主義が拡がり、深化することにより、この区別、この差別が明確化・強化されたのである。
 私としては、この点は大いに納得したところである。なるほど、介護や、看護、廃棄物の処理などの仕事は、エッセンシャルワークと言われるが、賃金は一般に安いとされる。大事な仕事ならなぜ賃金が高くないかと素朴な疑問を持っていたが、それが何かを売って利ざやを稼ぐといった利益を生み出す仕事ではないからである。

3.今日の世界が、1000年前の世界より自由や平等や友愛に満ちていることは自明であるなどとはとても言うことができない。
 曰く、近代社会は進歩という思想と深く結びついている。それはマルクス主義でも同様であり、 封建的社会体制に対し、ブルジョア革命でブルジョアが封建領主に取って代わり支配階級となり、プロレタリアートがさらに革命を起こし社会主義体制を確立するという発想は、人類の社会がだんだん良きものになっていくという進歩思想そのものである。しかし、現在が過去よりよりよくなっているという訳ではないとしたら、このような進歩史観は全面的に見直さなければならない、とウォーラーステインは言う。
 確かに世界の上層の1%、あるいは中間層の15%に焦点をあててその生活が豊かになったと言うことは言えるだろうが、残りの85%についてはむしろ悲惨になっている、史的システムとしての資本主義はこの両極化を推し進めるものだ、という。また豊かな生活とは言え、戦争は絶えず、核兵器は中国などで増え続けている。(そして、現時点で言えば、ウクライナイスラエルで私たちは確かに近代ならではの強力な兵器が、無力な民衆にむけられているの知っている)私たちの豊かさは、巨大な将来への不安、環境汚染、物質代謝の極大化、労働力の容赦のない加速化した使用などと引き換えであって、それらを考え合わせれば、史的システムとしての資本主義が成立する前より、良い世の中になっているとは必ずしも言えないという事だ、と私は理解した。

4.では、これからの世界はどうなっていく可能性があるのか。
この点についても、当然ながら簡単な議論で済むわけはない。前提として史的システムとしての資本主義体制が、人間社会の様々なプロセスの全的商品化、全地球的拡がりによりすでに限界に達しており、何らかの転換をせざるを得ない状況となっているとされる。
 この混沌から何らかの秩序が生まれるに違いないが、それは予見できない。しかし、ウォーラーステインは公式として幾つかの簡単なスケッチを挙げている。
1.一種の新封建制度とでも言うべきもの。
 現下の混迷の時代を発展させ、均衡のとれた形で再生産するもの。
2.一種の民主的ファシズム
 この世界では、世界はカースト風の二つの世界に分裂し、上の階層は世界の5分の1の人口からなる。この階層の内部では高度に平等主義的な分配が行われる可能性がある。残りの8割については、完全に非武装の労働プロレタリアートとすることができるかもしれないとされる。
3.もっと急進的で分権的で高度に平等化された世界秩序。ユートピア的であるが可能性はゼロではないという。

 いずれにしろウォーラーステインによれば、2050年、もしくは2100年に振り返れば、史的システムとしての資本主義は何らかの新しい体制によって、ネガティブかポジティブかは分からないが、過去のものとしての評価を受けている事になるだろうという。
 新しい体制は、今の世界の人々がどのような体制をとろうとするか、その動きに掛かっていると言うわけである。

 私たちが生きている経済社会が限界を迎えており、何らかの変革が求められている。素朴な社会主義革命思想などでは問題は解決せず、また漸進主義、改良主義に意味がないとは言えないが、本質的な変革には至らないとされる。私たちが生きている社会の数々の問題が、技術の発展や、経済的発展などでも解決し得ないと言う事を、世界システムという形で分析している点で、新たな思考を進める上での手がかりを得られたと思う。これからも何度も参照する事になるだろう。
 
補記的に、メモ的に、以下記す。
1.思想と現実
ウォーラーステインは、マルクスに言及して次の通り言う。
「かれが、みずから私はマルクス主義者ではないと称した事実は、真面目に受け取るべきであり、断じて単なるしゃれとして片付けたりするべきではないのだ」
 また、マルクスが、自分が生きている十九世紀の現実に制約されていた事を強く意識していたこと、自分が描いた完全な資本主義の解釈と現実の資本主義の分析との緊張関係があることを理解していたが、多くの人はこの点がわからず、見過ごしているという。
 マルクスの自覚は当たり前に思えるが、人間の思考は案外強く人間自体を縛り、考え出された概念を通じてしか世界を見なくなってしまうと言う事なのだろう。それが優れた思想であればあるほどそうなのかも知れない。
 優れた思想は滅びやすいと言ったのは小林秀雄だっただろうか。思想家は得てしてそのような罠に嵌まるものなのだろう。
 ここで、ウォーラーステインがいっていることは、マルクスを優れた思想家として評価すると共に、教科書的なマルクス主義には、いくつもの疑問を呈している事になる。社会主義と言う言葉も慎重に吟味されている訳だ。
2.封建制
デビッド・グレーバーの「ブルシットジョブ」に、現代の西洋社会では、民主体制とは言いながら、支配層の世襲が常態化するなど固定化してきていて、すでに封建体制と言っていい社会になりつつあると言う言及があった。日本でも、国会議員の世襲は当たり前になって家業のようになっているし、(だから議員は言わば選挙互助会の会員で、お互いの身分の保持が第一優先事項になる)、アメリカのハリウッドでも、有力者と近しいものによって固められているという。その程度は私には分からないが、アメリカのリベラル層も言わば特権化した層に占められ、そこに入れない、貧しい白人を含めた層との分断が拡がっているのは、トランプ現象などを見ても確かなことだろう。
 だとすれば、、私たちが民主体制に生きているつもりで、すでに一種の身分制に踏み込んでいて、歴史の進歩と言う言葉が戯言に聞こえてくるというウォーラーステインの考えがより説得力を持って迫ってくる。世界の変容を、しみじみと感じざるを得ない。

 

 

「物語 中国の歴史」 寺田隆信著 中公新書

中国の歴史を概括的に知りたいと考えて手にした一冊。現代中国の政治経済、文化を考える上でも、また漢字文化圏の東の端の国に生まれ育った日本人としても、中国の歴史の流れを知っておくことは必要だろうと考えている。
 随分以前であるが、陳舜臣作の中国の歴史を通読したこともある。作家らしく人物中心で、エピソードに富み面白かった記憶がある。
 陳舜臣の作品が分厚い文庫本で何冊もあったのに比べて、本書は厚めの新書一冊である。それだけコンパクトに、先史時代から清の滅亡、すなわち二十世紀初頭までを通覧している。
 また、陳舜臣が作家である事に対し、寺田隆信は、すでに物故されているが、京都大学東洋史学で学び長く東北大学で勤めた学者である。(著者プロフィールによる)
 短いから簡潔に書かざるを得ないのであるが、それが逆に全体を捉えたいという要望には相応しく、しかも内容が濃く、良書であると感じられた。
 良いと思った点を以下に記す。
1.先史時代(神話時代)と歴史的に確認できる部分を分けて論じている。考古学的研究の成果と、文献による成果を明確にしている。
2.技術的進歩、発明、また経済に着目して、それが歴史的な変化に対応していることを 記している。ただし、記述は極めて簡潔である。
3.著者が記していることであるが、文明と文化を基軸に記している。著者の意図としては文明は、基礎的普遍的なものであり、文化は特殊的、個別的、時代的なものである。
文明が誕生し、それが地域的に定着し、それがそれぞれの時代と社会で醸成したものが文化という定義をされている。
 著者によれば、中国の文明は自前で誕生し、他の文明の影響を受けることは軽微であり、黄河流域から次第に拡がり、現在の版図で言えば周辺諸国にも影響を与え、様々な時代があったとは言え、現代まで連綿と続いている。従って、他の国々と違い、最も自然な形で文明が発展したと言う。
 確かに、古代ギリシャ文明について今のギリシャから見ることは難しいだろうし、古代ローマも同様である。メソポタミア文明も発掘して研究するということになるだろう。
 中国の歴史を素材としたエンターテインメント作品は多いし、日本語のなかにも四文字熟語などをはじめとして、溶け込んでいるものは多い。だからなんとなくの知識はそれなりに有るのだが、それでは、孟嘗君と秦の始皇帝と伯夷叔斉と荊軻と班固、趙匡胤朱元璋西太后フビライ諸葛孔明を年代別に並べてみよと言われたら、なかなか難しい。さらには、技術の発展、西洋との交流、北方民族の盛衰、経済の発展がどう絡み合ってきたかと言う事を説明できるかというと、殆ど立体的な知識がない。
 この一冊でそのすべてに答えることは無論できないが、概論的な見通しはよい。文体は簡潔明晰である。
 深い知識と見識を持った専門家が素人向けに真面目に書いた本のなかには、しばしば読書の楽しみを感じられる良書があると言われるが、この本もそんな一冊であると思う。

 

 

「ペスト」 カミュ著 新潮文庫

随分前に買ってあった文庫本を、夏休みに改めて読み始めて、昨日読み終わった。
久しぶりに、文学的咸興が深くやはり優れた文学は良いと思った小説であった。
オランというフランス領のアフリカの海辺の都市が舞台である。(現在はアルジェリア領)
ペストが流行したことにより、都市が閉鎖され、次々に人々が亡くなっていくなかで、医師であるリウーが、その状況を客観的に捉えようと記録した体裁をとっている。
カミュの代表的名小説であり、大変なベストセラーともなった作品のようである。

さて、私の印象に残ったことを幾つか記す。


1.オーソドックスな、舞台となる都市の紹介から始まる悠然たる語り口に、小説らしい小説、3人称の神の視点から書かれた、医師リウーが、理不尽なパンデミックの襲来にもへこたれずに立ち向かう、ヒューマニスティックな小説だと勝手に思っていた。が、読んで見ると、もっと込み入った構造を持っており、またより思弁的な、それも多様な登場人物によって異なった視点からしばしば独白に近い形で語られる小説であった。しかも小説としての重層的な展開と、構造はしっかり保っている。書きたいことだけを書くという形にはならず、物語としてのダイナミズムが感じられる。

 

2.パヌルー神父
 これは日本人としては、わかりにくいところだ、と言う言い方自体が安易かもしれなくて、もう一度しっかり読み直したいと思う。ペストをキリスト教徒はどう捉えるのか、すなわち、見えない病気に次々に感染し、あるいは感染せず、理由も分からず、あるものは苦しみ死んで行くと言う状況をどう捉えるべきなのか。
 これを単なる神学的な論文と言うことではなく、小説のなかで、閉鎖空間のなかで生きなければならなくなった市民の反応と共に描かれている。
 神父の説教は2回あり、2回目は、酷く苦しんで死ぬ、判事オトンの幼い息子の死に至るまでの戦い(非常に綿密に描かれている)を目の当たりにした後のものである。
子供が苦しみ抜いて死ぬような事態を、神はどのように見ているのか。
 そして神父もペストに感染し、医師に診せることを拒否しながら死ぬのだ。

 

3.タルー
 主人公の分身とも言える、重要人物である。小説のなかで、タルーがノートに書き留めた出来事や人物が直接引用され、重要な部分をなす。
さらに、タルーが自分という人間の来歴をリウーに話しても良いか、と言って、ぜんそく持ちのじいさんの家のテラスに登ったところで話す内容は、この小説のハイライトである。この話は長い。彼の父は判事で、死刑判決を下し、死刑執行に立ち会う事もある。彼自身がある日その光景を目撃する。そのことが、彼のその後の一生を決めてしまう。残酷に人を殺してしまうこと。例え自分がその行為を行ったのではないとしても、その判断を行った人間に、社会に連なっているとしたら、何らかの連関を逃れられない、そのような社会に生きてなお、人間として正しく、まっとうな生き方をするとしたらそれはどのようなものなのか。少なくとも、親の望む判事になることではなくて、と言う具合に話は進む。二人は友達になり、くらい海に泳ぎに行き、つかの間、休息を得るのである。
 だが、タルーもペストが街を去って行くという時に、捉えられ、死んでしまうのだ。


4.ランベール
新聞記者で、たまたまオランに滞在していて、街が突然閉鎖されてしまったために街から出られなくなって、自分は無関係だと言って、役所に掛け合ったり、リウーに頼もうとしたり、奔走するのであるが、最終的に門衛にコネを付けて、裏金を出して脱走する手はずを整える。脱走に関係する部分は、人物描写を含め、随分丹念に描かれている。しかし、いよいよ結構と言うときに、ランベールは出て行かない事に決めるのだ。リウーは、外に行くことが決して悪い事ではない、自分の幸せを求めることが決して悪い事ではないと言うのだが、ランベールはもう自分が街の人間になってしまった、かかわってしまった、こうなってしまった以上、ここで出て行って手に入れる幸せは、不完全なものだと感じるようになっているのだ。
 理解はできるけれど、同じ立場に自分が立ったらと思うと、私は残れないだろうと思う。外には、愛する妻も居るのである。私は年配で、ランベールは若い、と言う事なのかもしれない。

 

5.リウーの母親
 息子から見た母は理想化されていると思う。母なるものへの憧れが、思慕が描かれていると思う。

 

6.倫理観 清潔さ
地中海の強烈な日光に、高い空と白い雲と清冽な空気に、この物語は浄化されているように感じられる。明確な倫理観と、つらい話を描きながらジメジメとした嫌らしいところがなく、さっぱりとしている。それが私には、何よりの魅力であった。もちろん、その倫理観は単純なものではなく、オランの街で言えば、昼間は金儲けに奔走し、夜はカフェで酒を飲む、暢気でいい気な一般市民、おそらく現代日本にも通じる人々の姿に自分もつながるのだ、と感じつつ、しかもその愚かさも理解した上での事である。

 

7.結末
結末のパラグラフ。すごいなあ。小説は題名と始まりと結末が大事と言うけれど、この小説は皆すごい。 結末ではペストに勝ったわけではないと言っている。ペストは死なず、どこかに潜んでいて、またいつか、人間を襲う、リウーはそのことを知っていると言っている。
 ペストは人を、社会を襲う恐ろしい何かの象徴である。2023年の日本人なら、すぐにCOVID-19を思い浮かべるだろうが、戦争であってもおかしくない。無垢な子供たちが苦しんで死んでしまうのは、ウクライナ戦争でも同じである。

 

8.構成・小説技法
すでに幾つか言及したが、随所に工夫がある小説である。小説の世界を成り立たせるため、しかもそこで、登場人物を生かし、登場人物に充分に語らせる、説明ではなく、その人物像を含め、語らせるのは大変な力である。だから、無造作に書かれたものではない。しかもただ技法を洗練させたものではない。小説が一つの芸術として成り立つとはどういうことか、作品そのものによって納得させられたと言う思いである。

 再読したい。

「さよならドビュッシー」 中山七里著 宝島社文庫

前回感想文をアップした「元彼の遺言状」もそうであったが、この作品も、有隣堂しか知らない世界という、youtube番組をみて、作者、作品に興味を持ち、読んだものだ。
参考にURLを挙げておこう。

https://www.youtube.com/watch?v=HwvSdRFQqrk

私は名前すら知らなかったのであるが、中山氏は大変な流行作家のようで、毎日二五枚書き、月十本以上の連載をこなしているということだ。
二十四時間定点カメラによる作家の生活が報告されているが、17.5時間を執筆に当て、そのほか映画鑑賞や読書もしていて、睡眠時間は3時間である。この日はエナジードリンクを飲むだけで食事はしていなかった。
さて、表題作は氏のデビュー作であり、このミステリーがすごい大賞受賞作である。
 結論を言うと、ミステリーのトリックという点で、私は見事に引っかかり、脱帽した。このトリックが何か、と言う点はネタバレになるから言わない。しかし、そう来たか、やられたぞ、という思いは確かにあった。
 ミステリーを沢山読んでいるわけではないが、それなりに犯人の目星はなんとなくつく場合が多い。今回も、やはりこの人かな、でもそうするとインパクトないな、と思いながら読んでいったのだが、見事に背負い投げを食った、という感じである。
 さて、もう一つこの小説で感心したのは、作者の音楽への造詣の深さである。これは生半可では無い。音大レベル? あるいは自分が演奏家として有るレベルまで真剣に努力した人でなくては書けないのではなかろうかと言うものである。またそれだけの知識があったとしてもこれだけ演奏シーンに託して表現できる点はすばらしい。その部分を読むだけでも価値がある本であると思う。

 さて、一方で目についた欠点。これは私の好みと言えばそれまでだが、人物描写がやや浅薄。これはミステリー小説、エンターテインメント小説の場合意図的にやる場合があるので一概に言えないが、類型的人物像が多いという気がした。
 また台詞回しが、べたで小説的膨らみがない場面がしばしば。
説明するな、描写せよ、と言う言葉があるが、説明に傾いて居るのである。
だがそのような私的も全体の揺るぎない構成(トリック)を成り立たせた筆力の前では大した傷ではないとは言えるだろう。
 どのように流行作家として成熟したのか、最近の作品を読んでみたい。

 

「元彼の遺言状」 新川帆立著 宝島社文庫

久々のミステリー作品である。2020年に「第19回このミステリーがすごい大賞」を受賞した作品と言うことである。綾瀬はるか主演でドラマ化もされている。
 私自身は、ミステリーは好きなのだが、最近の大量に出版されるミステリーの中で何を読んで良いかわからず、定評のある古典や海外作品を時々読むぐらいだった。
しかし、たまたま、下記の有隣堂書店のyoutube 配信で作者が登場しているのを見て興味を持ち、どういう作品か、作者の言葉と引き比べてみようと本書を手に取ったのである。
https://www.youtube.com/watch?v=r0e218zXqWY
なお、この配信自体は、約2年前のもので、ドラマ化される前のものだと思う。

結論は、面白かった。 
ただ、それは私が思い入れを持ってしまう部分があったので、それを除くと75点ぐらいかなあ、と思う。点を付けるというのも作品の評価として大雑把かもしれないが。とは言え、合格点は60点だから、優に近い良と言うところか。エンターテインメントであるミステリーの場合、トリックの出来具合や、プロット、伏線の張り方やその回収の仕方など、ドライに欠点を見つけることもできるし、点数を付けても作者には失礼にならないだろう。
 私が、興味を持ったのは、作者の新川帆立氏自身が、並の小説の主人公よりキャラが立っていたからだ。米国ダラス生まれ。東大法学部卒 東大の法科大学院を経て司法試験合格。司法修習中にプロ雀士試験に首席で合格。企業を相手にする渉外弁護士になるも、数年で辞めて、企業の法務部へ。もともと作家になりたいという希望があり、(16歳ぐらいで、我が輩は猫であるを読んだことがきっかけであるそうだ)作家への道を歩みはじめる。「このミス」に通るために5つの法則を見いだし、それに則って書いた作品が本作と言うことだそうだ。
 大変な秀才で、テストで良い点とるのは得意ですからと、まるで肉じゃがつくるのは得意ですからと言うように言ってのける。参りました。ルックスに言及するのは失礼だと思うが、若くて可愛らしいし、彼女自身を主人公にした小説も成り立つのではないかと思ってしまう。現在はやはり弁護士をしているパートナーとともに海外に在住しているらしい。
 さて小説である。
 ドラマ化されてもいるので、ストーリーは省略する。
美点として感じたこと。作者の5つのポイントに沿って述べる。
1.主人公のキャラが立っている。
美人で頭がよく、実力でバリバリ仕事をして金を稼ぐことを臆面もなく主張する。ドラマの綾瀬はるかはぴったりの役どころ。
 作者の渉外弁護士という経験が生きているし、有価証券報告書を取り寄せて、株式の持ち分を確認し、資産額を概算するところなど、ビジネスマンで法務や営業のスタッフ部門の経験のあるものなら、そうそう、と頷ける場面だ。
2.華やかさ。 
作者が挙げた5つのポイントの二つ目が華やかさである。先の動画では、これは簡単なポイントで、例えば金額を大きくすれば良い、と言っている。本作においては、亡くなった御曹司の株の持ち分は1000億円を超え、それ以外の資産も膨大だ。主人公は、数億円の報酬なら断るが、150億円の取り分なら受ける。このあたりのリアリティがなかなかいい。単に金額を大きくすれば良いのでは無くて、現在の日本の富裕層の現実が現れている気がする。この単位のお金が実際にやり取りされているのだ。
3.魅力的な謎。
 犯人に遺贈すると言う、なるほどキャッチーな遺言。
4.新しい設定・素材
 ベンチャー企業を買収するときに持ち株を細かく操作して問題をなくするところが、謎解きの鍵だ。 また、弁護士が、特に渉外弁護士がクライアントにとってどのような働き方をするのか、と言うところも私が仕事上で仄聞したものと整合的で、描かれる事が少なかったものだろうから、これ見よがしには書いていないが、私には面白かった。
5.現代的なテーマを入れる。
 これは、有能な女性が日本社会でどのような立場におかれるか、オヤジが無意識にどのくらいマウントしているか、女性が日本社会で求められる振る舞い方を拒否して動いた場合にどのくらい抵抗を受けるか、その圧に耐えることがどれくらい大変か、(通常の女性の振る舞いからどれくらいかけ離れねばならないか)という点が意外にしみる。
 
 では、この点はいまいちでは、と言う点。
1.マッスルマスターゼットという鍵になるクスリが、ゲノム編集して筋力をつくるというが、ここはもう少し詳しく書くか、あるいは逆に「新薬」程度にぼかして欲しかった。リアリティと新しさの塩梅の難しいところだ。
2.村山弁護士が亡くなるときの、一本飛び出ている煙草の描写がくどい。
  一度言っとけばいいのでは。すぐあれっと思う点だから。あるいはもっとさりげなく描写するべきだ。
3.最終部分で、ベントレーを飛ばして事故るわけだが、全損になるくらいの事故だから身動きできないくらいエアバッグが出るだろう。ここは、省略して欲しくなかった。
4.結末の家族の和解めいたくだり。小学生の時にお兄ちゃんを褒めてと言った、とかいうのは父親との長年の不和の理由としては弱い。主人公は、非常に魅力的だが、その造形にはまだ少し作者が迷っている点がある気がする。
5.最初に結婚を申し込む信夫の位置づけが、弱いのでは。これだけの主人公がなぜ彼に惹かれ、また結婚と言うことを意識するのかわかりにくい。ドラマでは、初回を見た限りでは、省略されているようだ。
6.犯人の動機が弱いのでは。また犯人の人物描写が弱いのでは。もっと書き込んで、動かして欲しかった。それだけ小説としては難しくなるわけだが。

 しかし、伏線の張り方、その回収、意外な犯人、合理的な解決というミステリーの条件をほぼほぼ満たして、最後にカーチェイスの山場もつくるという王道の作品であって、故に75点としたわけである。隔離された別荘での犯罪、というのも王道と言えば王道である。
 続編も読んで見ようと思う。

 蛇足であるが、文章について。
 私はいわゆる純文学を中心に読んできて、谷崎潤一郎文章読本を最近も再読したところだ。と言う目で見ると、作者の文章に無駄な副詞や形容詞を感じるのは仕方のないところかもしれない。一方で、作者のような文章が、今読まれている、文章なのだとも思う。しかし、程度の差はあっても、文章の味わい自体に小説の楽しみを求めるのは、例えエンタメ小説でも悪い事ではないと思うので、作者の文体が変化していくことを今後の私の作者への期待とし、また楽しみとしたい。

 

 

 

「家庭用安心坑夫」  小砂川チト著 群像2022年6月号掲載版 感想文

令和4年上半期第167回芥川賞候補作である。「おいしいごはんが食べられますように」を文藝春秋で読んだわけだが、たまたま候補作である本作についても群像を持っていたので今回芥川賞候補作になっている作品を読んでみて感想を書いてみることにした。
本作は、群像新人賞受賞作である。

本作は、私にとっては「おいしい~」に比べて、格段に読みにくい作品であった。冒頭から、主人公のリアルな現実と、妄想・幻覚とも言える世界がない交ぜになっていて(という解釈も、読み進むうちにそういう見当を付けたわけではあるが)うまく読む足場を築けなかった。
 しかし、読み進むうちに、特に主人公が亡くなった母によって父親と教え込まれている今はテーマパークのようになっている坑道の中のマネキン人形を盗み出すに至る一歩一歩の描写には、荒唐無稽な設定ながら読ませる力が有って、文学的な力量とはこういうものであるのか、と思った。
 それにしてもマネキンを父と思い込んで、盗み出して東京まで運んでどうするのだと思っていると、出奔した家には夫が不在で、がらんとしていて、主人公は夫と2人で暮らしていた生活に戻れないと理解するところで小説は終わる。
 これは、主人公の妄想と現実の結節点に主人公が着地せざるを得なかったと言えるだろう。マネキンはマネキンに戻り、もう主人公の妄想の対象としての働きをしてくれない。しかし、主人公の現実は、困難なものであったとしても、ここから始まるのだ、と言うのが私の読みである。

 妄想と現実と書いたけれど、改めて考えてみると、客観的現実世界を正確に捉えている人などいるわけはなく、見間違えや、聞き間違え、空耳、も頻繁に起こり、心配事があれば、考え込んであらぬ因果を想像するのは日常茶飯事である。科学的・客観的と思っていても実は概ねそう考えていれば世間でほぼ問題なく生きていける、と言う程度のものなのかもしれない。さもなければ、この世の中にこんなに沢山の陰謀論が、と言って悪ければ複雑な現象に浅薄な原因を当てはめることがはびこっているはずはないだろう。各人が見ている現実と世間が受け入れてくれる水準との差は実はいろいろであって、かなりの幅が、人が普通思うよりあるのだろうと思う。そして、その差が大きく広がり、さらに安定せずに動いてしまうのだとしたら、そしてそのような視点に辛うじて捕まって生きている人の視点からその揺らぎを含めて描いたのだとしたら、この作者の描くような世界もありうるのかもしれない、と思わされた。
 視点をどのようにとるかは、小説の世界を構築する上で重要な問題だろうと思う。通常、三人称、一人称、場合によっては二人称、手紙の文体、などがあるわけであるが、三人称と言っても簡単ではなくて、神の視点から本当に書ききれるかというと、いつの間にか1人の中に重点を置いて入って行ってしまったりする。一人称と言ってもいつの間にか三人称的に主人公以外の心理を描写してしまったりする。(これは技術的に稚拙なのだ、と三島は言っている)
 この作品の場合は徹底的に一人称なのだが、その世界の軸が揺らぐ、と考えると以外に方法的に画期的なのかもしれない。

 もう一つ。マネキンになってしまったかつて落盤事故で亡くなった坑夫の生活が、幾つかの章に別れて挿入される形で落盤で死ぬまで描かれる。これが必要なものなのか私は疑問に思ったが、この物語の部分だけでも描写に力があり、人物が浮き立ってくる。単純なアクション遭難もの、背景説明にはなっていないので、大したものだと思った。マネキンは単なるマネキンではなく、1人の人間がここにいたという印でもあるのだ。
 だとすると主人公がマネキンを父と思った事は全くの絵空事とも言い得ない、時空と次元を超えたつながりを見いだすことができるのかもしれなくて、そんな事を考えるのはすでに作者の罠に填まっているに違いないのだが、そう考えさせるだけの力が有るのは確かだ。
 
 読みにくいがパワーを感じさせ、私たちの生の一面に違った光を当てた作品と言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

「美味しいごはんが食べられますように」  高瀬隼子著 文藝春秋掲載版 感想文

令和4年上半期第167回芥川賞受賞作である。芥川賞受賞作を好んで読んでいるわけではないのだけれど、当代の一流作家と思われる方々の選評を読むのが面白くて、掲載号の文藝春秋をなんとなく買ってしまう。ところが、小説というのは実に好みの分かれるもので、食わず嫌いと言えばそれまでだが、素人の私は肝心の受賞作は大概数頁読んで止めてしまう。選評は面白くて読むのに。以前読み通した受賞作で印象に残っているのは、「コンビニ人間」で、これは面白かった。プロの作家というのは大したものだ。好みでない作品、ろくでもない作品もあるだろうに読み通し、作品の長所・短所を捕まえて批評するのだから。

さて、本作は読み通すことができたし、それだけでなく、興味深く面白く読むことができた。この小説が職場小説であり、仕事場の人間関係小説である事が、サラリーマンである私が興味深く読めた理由の一つなのだろうと思う。
逆にどうしても、私が勤めている職場と比べてしまうし、マネージャー業務もそれなりに長くやってきたので、これはないな、とか、自分だったらこうする、などと、あまり文学的でない感想が次々に浮かんできた点は文学鑑賞として良かったのかどうかわからない。
 物語は、芦川さんと押尾さんと言う女子社員、二谷という男子社員の3人を中心に3人の上司の藤さんやパートのおばちゃんが絡んで進んでいく。
冒頭の、藤さん(中年男性)が口を付けた飲物を、そう言われてから飲んでみせる芦川さんが強烈で、暫く先を読まずに日を置いたけれど、読み進めるとグロいところに進むことはなく、安堵した。
 冒頭のエピソードに現れるように、芦川さんはある種の個性の持ち主である。一口で言えば、芦川さんの生存戦略は、厭な仕事は徹底してやらず、(この徹底ぶりが彼女の強さだ)仕事ができないことを、身体の弱さや、ケーキを作って持ってくることでごまかしてしまう事である。仕事では決して尊敬されないが、なんだかんだと職場で位置をしっかり確保するタイプである。自分が厭なこと、つらいこと、失敗したことの尻拭い、などは絶対しない。頭が痛くなってしまうし、休んでしまう。また、仕事で、より良い仕事をするために頑張る、頭を使う、などと言うこともしない。
 押尾さんは、そんな芦川さんが嫌いだし、二谷に対し共同して芦川に対抗しようとする。二谷も芦川が尊敬できない、とわかっているのだが、彼は結構女性に対していい加減な男で、芦川さんと寝てしまうし、芦川さんが定期的にやってきて料理をつくるようになって行く。必ずしもそのことを喜んでいるわけではないのに、芦川さんに絡め取られるように関係を深めていく。
 文学的でないことを書くと、私が藤さんの立場だったら、① 女性社員に限らず社員の持ち物とはっきりしている飲物に勝手に口を付けることは絶対にない。私の気質として、そういうことは嫌いだ、と言うことと、もう一つは、現代の職場は、そんな事が赦される場ではないと言いたい。少なくとも私の勤める職場ではそんな事は絶対にない。② 芦川さんがケーキを持ってくることに対して、面談して止めろという。③芦川さんの頭痛にたいして、少なくとも面談などを繰り返し、病状を確認し、改善することを求める。
「だめな社員に対する労務管理入門」のような話になってしまったが、経験上、これでうまく行くか、というとそういうわけでもない。駄目な人は駄目なままというのが大半である。しかし、駄目な人を職場で容認する度合いは、藤さんほど甘くしてはいけない、と言うのが私の経験からの結論だ。
その点で、押尾さんを辞めさせてしまったのは惜しい。こういう人が本当に仕事をしてくれるのに。
で、二谷は調子良いやつだなあ。こんなでいいのか。というか、調子よくやっているつもりで、芦川さんみたいな女性に引きずられているじゃないか。嫌悪しているのに。
 と言うわけで二谷のことは理解できないし、好きになれなかった。
だって、いきなり、君とは寝ないよ、とか言ったりさ。いかん、口調がすっかりカジュアルになってしまった。職場の乗りになってしまった。
 
 この小説の魅力を考えると、実は上記のようには簡単に人物を類型化できないところではないかと思う。藤さんは、小心翼々たる中間管理職だが、ステレオタイプではなく人物像が浮き出して感じられる。二谷も大学時代からの文学への思いをどこかに持っているようである。60を過ぎた私のようには人生を単純化して見ることはできないであろうし、芦川さんに対する感情も言わば愛憎半ばするものがあると言えば言えるだろう。
芦川さんとセックスをする事と食事を作って貰うことが習慣化して、その吸引力が自分でも意外に思えるほど、彼の足を絡め取っていると言えなくもない。
 芦川さんはモンスターだ。多分自分本位だし、嘘つきだし、でも握った自己の利益は離さないタイプだ。本当にいいのか二谷、と心配になってしまう。
 押尾さんも、複雑な内面を抱えている。でも私が職場の上司だったら、一番彼女を大事にするな。そういう信頼関係を保てるか、なかなか大変だが。

 総じて、職場小説として面白かったし、上記のように人物が類型化せずに浮き出している点が優れた点だと思う。おじさんの視点を盛り込めたらさらに良かったと思うけれど、それは無い物ねだりというものかもしれない。