「戦争の犬たち」 フレデリック フォーサイス著 角川文庫 読了

フォーサイスの短編がけっこう好きなので、長編の手始めに読み始めた。
すでに書いたように現代とは時代の違いが顕著。ここではフォーサイスの世界観、政治観が明確に出ていて、あるいは出過ぎていて、小説としてはご都合主義に過ぎる、という気がするが、もちろん部分部分では読者を引き込むところがある。
冒頭のアフリカで亡命していく将軍の描写。
シティで奸計を巡らせる資本家。
しかしなによりの読みどころは、戦争より、戦争の準備のための100日だろう。これはちょっと特殊な読み方かもしれないけれど、サラリーマンとして輸出入にちょっとだけ関わったことのある(多分多くの勤め人が関わったことがあるレベルだけれど)僕としては、法の網をくぐり抜けて、いかに武器を集め、アフリカまで運ぶか、というロジスティックスの部分が詳細で面白かった。この詳細さがいかにもフォーサイスらしいところで有る。
この小説を読むと、日本などと取引に関する構えが違って、完全に信用はできないが、しかし手順をきっちり踏んで、時には手を結んでいく、商売をしていく、という感じがよくわかる。人間関係が大事と言うこと。
それから、金で買えない人間はいない、という資本家の人間観とそれへの嫌悪感を感じることができる。けれども感触はウェットでは無く、あくまでもドライ。
プロットとしては、あらっぽくて穴があると思うけれど、時代が変わってもいまに通じる人間観、世界観、アフリカの現状をみるに、大いに読むに値する本であったと思う。

「フェミニズムの時代を生きて」 岩波現代文庫

数ヶ月前に読んで、感想を書きたいと思っていて延び延びになっていた。
僕は中年男性だし、この本の中で上野千鶴子先生が言っている「当事者性」がないわけで、まずその意味でフェミニストではないし、また世間で「女性を尊重する男性」という通俗的な意味で流通している「フェミニスト」でもない。前に書いたかもしれないけれど、男におごられて喜ぶような女はおかしい、と言っている西原理恵子には深く共感するものであるし、男女平等なのだから、明らかにアンフェアな扱いは止めるべきだと思うが、女性を変に優遇しようという気持はない。
では、なぜフェミニズム系の本を読むかというと、面白いからである。斎藤美奈子の文芸評論はまじめで、きちんと元手が掛かっていてしかも芸がある。(このごろけっこう説教くさいという気もするが)。斎藤美奈子が推薦していた落合恵美子教授の本は確かに目から鱗本であった。小倉千加子先生は大変な才能の持ち主で、「松田聖子論」の歌詞分析、「結婚の条件」の生存・依存・保存という分類も才気煥発たるものがある。上野千鶴子先生の言うことには分からないことも多いのだが、そして無駄に政治的ではないか、と思わないでもないが、小倉先生との丁々発止のやりとりにはやはり深く考えさせられるものがある。なにより彼女は代表選手として頑張っている。
で、なぜ面白いと感じるのかと考えてみると、僕自身が男性としての枠組み、勤め人としての枠組みの中で忸怩たる思いや違和感を感じていると言うことがあって、そういう事々に対して、解法を与える、と言うところまでは行かないまでも、解毒剤にはなっているからではないか、と思う。
 さて、この本は、上野千鶴子とその先行世代の2人の女性学者が時間をかけて語り合ったものである。
 一口で言うと非常に読みがいがある。上野千鶴子について言えば、著書や小倉千加子とのやりとりだけでない多面的な発言、また指摘を受ける部分があってそれだけ理解に役立った。
 西川、荻野の両先生は僕のような一般読者が読むような本は出されていないようだが、それぞれに知的で、率直できっぱりとした発言をされている。それぞれに地位もある人たちがこれだけ率直に語って、本になるということが、男性学者だったらあり得るかと考えてみると、なかなか難しいだろうと思う。女性学というのがそういう雰囲気を生みやすい、まだ新しい学問分野であると言うこともあるのだろうけれど。
 中で、西川先生の裁判の話はなかなか興味深かった。
 幾分婉曲に話されているが、大阪大学を相手に、一旦決定された採用の手続きがいっこうになされないことに対し、裁判を起こしたというものらしい。
 僕もサラリーマンをそれなりに続けているので少しは分かるが、日本社会の有る共同体の中で、その共同体の一部を相手取って裁判を起こすのはよほどの決意であるし、そのことが引き起こした軋轢も並大抵のものでは無かったであろうと思う。実際、西川先生のアカデミズムでのキャリアは新設校を回る、と言うものになったと言うことだ。要するにヒエラルキーの中心からは遠ざけられたのだ。
 なお、この3名の先生は、むちゃくちゃ頭がいいわけで、女子学生の比率がとても少なかった中で(特に西川先生)トップレベルの大学を出てしかも学究の道に進んでいるのである。差別的な意味では無く、女性の中でもやはり特別な人たちであるのは間違いないと思う。
 また、語られていることにすべて賛成しているわけではない。僕としては理解不能、あるいはそうでもないのでは、と思うこともある。
それにしても 対話の密度の濃さ、レベルの高さは再読を促すものがある。いつかまた読んでみよう、と思える時がきっと来ると思う。

フェミニズムの時代を生きて (岩波現代文庫)

フェミニズムの時代を生きて (岩波現代文庫)

「職業としてのAV女優」  幻冬舎新書

よくわからない世界について知識を得られたと言うことで、読んだかいがあったけれど、AVの仕事を肯定的に見る視線、そのビジネス書のような文体に違和感を覚えてしまった。それは僕の偏見なのであろうが。
リスクの一杯ある業界だと言うことは説明しているし、巻末ではできれば関わらない方がいい、とも言っているのであるけれど。
うまく自分の感じたむずむずする感じを表現できないが。もろもろのやるせなさ、とでも言っておこうか。

小林秀雄の顔

小林秀雄の顔を初めて見たのは中学の頃だったと思うが、もちろん写真でだけれど、白髪の老人で、好々爺然とした風貌がとても印象的であった。当時は大学入試のために読まねばならない本の第一は小林秀雄だった。
後に中年期の小林秀雄の写真を何かの本で見ると、これがとても生臭くてびっくりするほどだった。中年期からあぶらがぬけて、良い感じの老人になったのだな、と思った。
中上健次との昔の対談「小林秀雄を超えて」で、柄谷行人は、小林秀雄は本質的にプラトン的で、どんなものを書いても一つの真実に収斂させてしまう、だからいつかいたものなのか、分からなくなってしまう、と批判している。
この言葉が、晩年の小林秀雄の、僕の好きな肖像写真と結びついた。何でも知っているし、何を聞いても動じずに応えてくれる。世界を見切ったまなざし、それがまさに老年の小林秀雄、柄谷が言うところのプラトン的な小林秀雄だ。
しかし、世界はプラトン的に割り切れるわけじゃないし、小林秀雄が物事をすべてみきれるわけないでしょ、と柄谷は言っている面があると思う。
それは正当な批判だと思う。と同時に、やはり小林秀雄の老年の肖像は魅力的なのだ。だれでもそういう場所に行きたい、という思いがあるのでは無いか。人生の後半戦にはね。

小林秀雄の対談本「人間の建設」読了

面白かった。一番つまらないのは、茂木健一郎の解説だった。間違ったことを書いているとは思わないが、もっとコンパクトに簡明に書けるのに。
さて、この対談本には面白い点が沢山あって、これから小林秀雄を読んで行く上でけっこう読み直すことになるかもしれない。
昭和40年の対談なのに古びた感じがしないのは不思議。

小林秀雄の対談本について

昨日買った、岡潔小林秀雄の対談、「人間の建設」を早速読んでいる。昭和40年の本である。ここで語られていることがほとんど現在に当てはまる、(教育がだめだ、とか科学が理屈に走って、破壊することだけになってしまっているとか)ことに驚く。先見性と言うより、古びていないと言うこと、同じ課題をずっと抱えているのだと言うこと。
すでにハイゼンベルグ量子論に眼を届かせている事にも驚いた。
柄谷行人の専売特許じゃ無かったのね。
小林秀雄が、若い時より日本酒がまずくなった、と嘆いていることに微苦笑。当時は日本酒の暗黒時代である。このことについてはちょっと話を聞いたことがある。いまの辛口日本酒なら、少しは見直したのではないかしら。