小林秀雄の顔

小林秀雄の顔を初めて見たのは中学の頃だったと思うが、もちろん写真でだけれど、白髪の老人で、好々爺然とした風貌がとても印象的であった。当時は大学入試のために読まねばならない本の第一は小林秀雄だった。
後に中年期の小林秀雄の写真を何かの本で見ると、これがとても生臭くてびっくりするほどだった。中年期からあぶらがぬけて、良い感じの老人になったのだな、と思った。
中上健次との昔の対談「小林秀雄を超えて」で、柄谷行人は、小林秀雄は本質的にプラトン的で、どんなものを書いても一つの真実に収斂させてしまう、だからいつかいたものなのか、分からなくなってしまう、と批判している。
この言葉が、晩年の小林秀雄の、僕の好きな肖像写真と結びついた。何でも知っているし、何を聞いても動じずに応えてくれる。世界を見切ったまなざし、それがまさに老年の小林秀雄、柄谷が言うところのプラトン的な小林秀雄だ。
しかし、世界はプラトン的に割り切れるわけじゃないし、小林秀雄が物事をすべてみきれるわけないでしょ、と柄谷は言っている面があると思う。
それは正当な批判だと思う。と同時に、やはり小林秀雄の老年の肖像は魅力的なのだ。だれでもそういう場所に行きたい、という思いがあるのでは無いか。人生の後半戦にはね。