「坊ちゃん」夏目 漱石著 岩波文庫で読みました

 

 よく読まれていると言う意味では、夏目漱石の代表的作品の一つである。若い頃に一度読んで、その時の印象は、評判とは違っていま一つスカッとしないな、と言うものであった事を覚えている。今回再読し、やはり同様の感想を抱いた。
 坊ちゃんは父親や母親に愛されていないし、兄は適当に財産分与して別れてしまうし、坊ちゃんの味方になってくれるのは「清(きよ)」だけである。その意味では、この小説は清のことだけを書いてあると言っても良い。
 学校に行っても学問に目覚めるわけではないし、四国の中学に赴任しても、土地が気に入るわけでもなければ、あれこれ我慢しても仕事に身を入れて一家を立てようというわけでもない。とにかく自分なりにあれこれやって見はするが、江戸っ子の気質を盾にとって不満を一杯にぶちまけている。
 一体に、快活さや、明朗さ、天気の良い広い空を見上げたような、楽しい、風通しの良い楽しさ、明るさ、と言うものはどうしても感じられない。
 しかし、発表当時から、読者は面白く、楽しく読んでいるのだろうから、私の感じ方が少し、おかしいのかもしれないが、なんだか不思議だ。
 坊っちゃんは、四国で一暴れしてくるが、学校改革に成功したわけではないし、先生を続ける訳でもなく、赤シャツをポカリとやったけれども、うらなり君を救えた訳でもない。冷静に考えてみれば、山嵐とともに敗北するのである。それも大人物がそれなりに努力した上での敗北と言うことではなく、何か、がらが小さく感じられる。
 と言うわけで、私は坊っちゃんと言う人物がもう一つ好きになれない。晩年は随分偏屈なじじいになっただろうという気がする。
 一方で、文章という意味では、漱石の力は言うまでもないがさすがである。物語が自ずと紡ぎ出されていくような文章の力、格調の高さなどには縛られない自由な筆の運びには読む楽しさを感じずには居られない。特に、うらなり君の送別会の描写などは、明治の昔から、日本人は同じ事をやっていたのだと、ため息をつくほどである。その意味では私は大いに愉しみ、時に声を出して笑った。
 さて、清である。唯一、坊ちゃんを無条件に認め、いつでも味方をしてくれ、無償の愛を注ぎ、時にはささやかでも経済的援助さえしてくれるのが清である。最後に一緒に短い期間でも二人だけで一緒に住み、一緒の寺に葬ってくれと頼んで死んでゆく清。坊ちゃんの支えであり、この世に生きていくための証しでさえあったかもしれない。
 敢えて言えば、男女を問わず、誰でも清のような存在は必要としているのではないか。
 坊ちゃんの孤独、さみしさ、「親譲りの無鉄砲」で対抗するだけでは、敗北するしかなかった痛みが、しみじみと感じられた二度目の読書だった。