感想文 「虐殺器官」 その2  ネタバレ注意

伊藤計劃 虐殺器官の続きである。以下、ネタバレになるので、万一これから読もうか、と思っている人がこのテキストを眼にすることが有るとしたら、(って、そんな確率は天文学的に低いとは思いますが)ご注意ください。

 虐殺器官とは、主人公に追われる研究者が発見した、「文法」である。つまり言葉だ。その文法に則って言葉が語られると、有る共同体は止めどなく混乱状態に突入し、互いに互いを殺すようになる。
 研究者は、発展途上国において、次々に紛争を起こす。主人公はついに研究者を捉え、その動機を問いただすのだが、それは、一口で言えばドミノピザを食べていられる生活を守るためだ、と言うものだった。
 つまりアメリカに代表される、恵まれて安定された生活圏を守るために、周辺で紛争が必要とされていると言うわけだ。
 さて、主人公は、証言台に立たされるのだが、彼は密かに入手していた虐殺の文法によって証言を行うのである。マスコミによって国内に繰り返し流布されたこの言葉によって、アメリカはたちまち内戦状態に陥る。
 ドミノピザを怠惰に食べる生活は破壊されたが、今まで紛争の起こっていた地域には平安が訪れるであろう。。。

 この結末を読んで感じたことは二つ。

1.日本人だから書ける結末ではないか。これはアメリカがマッチポンプ的に世界に紛争を輸出し、その解決のためにはアメリカ自身が内戦状態になってしまえばよい、と言う風に読める。アメリカ人は絶対にこんな結論に至らない。

2.結末は読者のために書かれねばならない、というのは罪と罰についての小林秀雄のコメント(やや我田引水?)であったが、小説の構造が、落語に落ちが必要なように結末を求め、伊藤計劃も結末を書いたのだが、本当はもう、書きたいことは書き尽くしていたのではないか。
 というのは、結末としては弱く、書き急いでいる印象をもってしまうからだ。
 虐殺の文法がソマリアやその他の紛争地域で即効性をもって機能したのは設定として受け入れるとして、豊かで、政治制度の遙かに整った、つまりは社会的スタビライザーが何重にも用意されたアメリカという国で機能するためにはそれなりの書き込みが必要ではなかったか。
 
 小松左京小松左京賞の選定において主人公の最後の行動に疑問を呈したというのも、頷けるのである。(賞を貰っても良かったとは思うけど)
というわけで、小説というのは難しいものだな、と思いました。

 伊藤計劃の作品はいくつも残ってはいない。少し間をおいて、もう一つの長編である「ハーモニー」を読んでみたい。

                        2010/07/11