感想文 「メタルギア ソリッド」  伊藤計劃著

メタルギアソリッド」(以下MGS)というのは、随分長期にわたって売れているゲームであるらしい。僕も名前ぐらいは知っていたけれど、プレイしたことはない。今回この本を読んだのも、伊藤計劃がノベライズしたからなのであって、伊藤計劃の小説世界に決定的な影響を与えたという事前の知識がなければ、伊藤計劃の仕事であっても読まなかっただろう。
 テレビゲームは、ドラクエ3ぐらいからプレイしたことはあるし、スーパーマリオも知っている。バイオハザードは初期のバージョンはやったことがあるし、懐かしくなって、2年前ぐらいにはPC版のイースをつい買ってしまった。 しかし、ハードで区分すると、僕が知っているのはせいぜいプレイステーションまでであって、PS2、DSあたりになると、お手上げである。

 僕がテレビゲームから離れたのは、何より年齢的なもので、無尽蔵に時間があると思えなくなって、100時間、200時間をかけてRPGをやり遂げるなどと言う気力が失せてしまったことが大きい。
 もう一つは、ゲームというプログラムの世界に飽きてしまったことがある。ゲームは所詮、作り物の、養老孟司先生の言葉を借りれば、人間の手による脳化した世界内の産物である。である以上、あくまで人間の想像力の範疇に収まるものでしかない。年を取るとともに僕は人間の想像力の及ばぬものに惹かれてきたと言えるかも知れない。大袈裟に言えば、語りうるものではなく、語りえぬものに興味を移してきたのである。あるいは、もう少し、養老先生の言葉に沿って言えば、人間の手の加えられない「自然」に惹かれてきたのである。(もちろん、今の社会に取り込まれたお行儀のいい自然では有りませんので。)
 このノベライズされた小説を読むと、そういうゲームならではのくせ、テレビゲームをプレイするときに、キャラクターのぎこちない動作、繰り返される単調な台詞などに感じるおかしみを感じることが出来る。
 都合良く現れる武器商人はRPGでおなじみの村の武器屋である。世界中を次々に転々とするストーリー展開、これは、一つのステージをクリアすると次のステージに進むゲームシステムに対応している。電子レンジと同様の電磁波に焼かれ、もう戦う気力も体力も残っていないはずなのに、死力を尽くしたボスキャラとの素手での戦いがありそして勝ってしまう。これなど無限に蘇生するテレビゲームのキャラクターそのものだ。

 だが、そう言う評価だけでは、伊藤計劃がかわいそうだ。伊藤計劃は全力でこのゲームに肉付けする。RPGゲームには、ゲームに無関心な人間が想像できないほどの詳細なゲーム世界の詳細な説明、キャラクターの味付けが成されているようだけれど、伊藤計劃の肉付けはそれを遙かに超えていると感じさせる。
 後書きで彼は書いている。
「ノベライズであることの意味を、自分に出来る極限まで考え抜いた結果生まれたのは、私が「メタルギア」の物語の意味を語ることの意味をを語る、物語についての物語であり、「メタルギア」サーガとはいったい何だったのか、それが僕らの生きている世の中の仕組みとどう象徴的に関わっているかを示す、「メタルギア」への「批評」でもある物語でした。」

 自分に出来るという限定がついているとは言え、「極限まで考え抜いた」と言いうる伊藤計劃の思考力と志に驚き、敬意を表しておく。
 それは、おいておくとして、ここで伊藤計劃が言っているのは、ゲームシナリオに沿ったストーリーを職人芸的に纏めることなどに満足せず、彼が感じている、生きているリアルなこの世界を「メタルギア」を鏡として浮かび上がらせるという力業こそがこの作品なのだということであり、そこにこそ伊藤計劃は作家的志を賭けたのだ。

 この強引な意図を伊藤計劃は殆ど爆発的な筆力で成し遂げようとする。ゲームシステムに従うことが屡々滑稽さを招いてしまうことなどお構いなしに、キャラクターの肉付け、その背景の世界を書き込んでいく。
 構成の難や、少々の文章の乱れなどものともしない、このような力にこそ若い作家ならではの「煌めき」があると僕は信じる。
 この作品を文学として評価することは出来ない。しかしこの作品の中には伊藤計劃という若い作家の煌めきが確かにある。
 ダイヤモンドの原石を磨く時間が与えられなかったことを重ねて惜しむものだ。