感想文 「ためらいの倫理学」 内田 樹 著

 僕が内田樹という著者に興味を持ったのは、新聞のインタビュー記事を読んでからと思う。内田先生はは現代の幼稚なエゴが過剰に主張される世相を憂え、あの池田小事件に関する朝日新聞の記事において、父兄が亡くなった教師に哀悼の意を表することもなく学校の安全管理の手落が非難されていた記事に目を覆った、そのようなマスコミの報道姿勢もおかしいのではないか、と言うような趣旨であったと思う。

 とても新鮮で共感を覚える意見であったので印象に残ったのだと思う。
 池田小事件については、僕も事件の報道の仕方に何ほどかの違和感を感じた。殺人者が突然刃物を持って教室に飛び込んできたときに、的確に反応できる教師など居るだろうか。戸惑っておろおろして当然ではないか。内田先生が別の著書で書いているように、怖いものからはとにかく逃げていくという、子供達の動物的な運動能力の欠如はあるいは指摘できるのかもしれない。しかし教師の危機管理能力は、特殊な学校全体の継続的訓練を必要とするはずだ。何時起こるか分からない不埒な乱入者に完璧に備えるためには、肝心の教育がお留守になるくらいの張り詰めた防衛網が必要なはずだ。何が起こったか理解ができず結果的に対応が遅れてしまった教師達の反応は、悲劇的ではあったが、敢えて言えば自然でもあったとおもう。僕には、そこにいて彼ら以上の反応ができたかというとまるで自信がない。そしてそれは、責められるべき事なのだろうか。
 さて、「ためらいの倫理学」である。
さまざまな事柄をテーマとした文章が掲載されているが、ここでは本の題名となっている「ためらいの倫理学」について、僕の感想を記す。それはこの本全体に通底するテーマを扱っているからでもある。
 この論文の題材は「異邦人」で知られるフランスの文学者、アルベール・カミュである。
 簡単に論旨を述べる。カミュ読解も省略し、僕が読み取った著者の論旨のみ述べる。カミュは、第二次世界大戦ナチスに占領されたフランスにおいてレジスタンス活動をしていた。その時点でカミュは、テロリズム肯定、正しいことをするために敵を殺すことも否定しない論陣を張っていた。しかし、戦争が終わり、ナチスへの協力者が裁かれる段になって、初めは強力にその処刑を主張していたカミュは、次第にその立場を変えていく。ためらいが彼を捉えて行くのである。
 この変化はなぜ起こったか。戦争中、彼のテロリズム肯定は、レジズタンスという絶対的に不利な立場からの決死の行動を前提にしたものだった。いわば肯定された敵の死は、己の死を常に前提としたものだと言っていい。その点において彼は、敢えて言えば敵とフェアな地平に立っていたのだ。しかし、戦後のナチス協力者への裁判においては糾弾する側の人間はもはや絶対的に安全な場所にいる。高みに立って裁く立場にいるのである。だからといって裁かれるものの罪、おぞましさが軽減されるわけではない。むごく殺されたもの達が癒され、よみがえる訳ではない。けれどももはやカミュは、敢然と極刑を求めることができなくなっていくのである。そして著者 内田樹先生はこのカミュのためらいに深く人間的信頼を寄せるのである。

 カミュほど極限的、劇的状況にさらされないまでも、僕たちの日常においても僅かな立場の優劣が思わぬ人間の残酷さ、あざとさを暴くことは珍しいことではない。優位な立場に立つものの追求が仮に正当なものだとしても、その立場の不均等さが何かしら彼の心に疚しさの陰を落とすことは不自然なことではないと僕も思う。安全な立場で劣った立場に立つものを追求することは楽な事であって、どこか本来的な倫理性を損なっているように感じられるからだ。自分が殺されないと分かっているのに、相手の命を請求することの、その請求の本来的な正当性によってさえ払拭しきれない疚しさ。カミュを立ち止まらせたのはこの疚しさに他ならないし、そしてそのようなカミュの感受性こそ真に人間的なものだと僕も思う。