盗賊   三島由紀夫作

三島由紀夫マイブームが続いている。今回は、初長編たる「盗賊」。

若い時に一度読んで、その時の印象は間違っていなかったと思うが、今回改めて読んで、三島の彫心鏤骨の文章、綿密な構成、見事な結末に改めて感嘆した。

  とは言え、もちろん、わかりやすい文章ではない。三島はきわめて論理的に突き詰めて登場人物の心理をうがち、それも自分の感受性のひだに当てはめて、言葉の組み立てによって純粋に美しい風景とその中の一組の象徴的な男女を描き出そうとする。風景描写はだから自然描写と言うよりある心理的背景のための描写、ある行動のための象徴的意味づけとしての描写となる。

 しかし、これほどまでに現世というものは、あるいは生きていくと言うことは、失恋というきっかけがあってとは言え、純粋なものから遠く、美しいものを保つことが難しく、清らかでいる事は殆ど不可能で、耐えがたく、醜く、退屈で、時間潰しにしかならないものなのだろうか。そのようにしか、人生を感受し得ないとしたら、生きていく事はただつらく無意味で、対して、死は意味と魅力を増すだろう。この小説は、殆ど死を意味づけるための小説という読み方もできるだろう。

 三島はラディゲへの対抗心から、同じ年で同じ質の作品を書かなければならないと考えてこの小説を書いたという。この若さ、おそらく22~3歳で、これだけまとまりのある小説、表現の幅広い小説、何より作者にとって切実なテーマを彫り込めた小説を書けたのは見事だ。しかし、新潮文庫版解説では、武田泰淳によって、論理的であること、描写に潔癖である事、登場人物を作者の思う経路通りに動かさなければ済まないその筆の運びが、小説の骨格が浮き出ている、というように批判されている。しかし今回再読して、武田泰淳もこの小説が未熟と言っているのではなく、そのような論理性が、作者の切実なテーマを定着させ、作品を血肉化するための論理性、一つの小説世界の構築のための骨組みであると言っていることを改めて確認した。そして、このラストシーンの「名調子」。小説の題と呼応した、すべてがそこで氷解する、一種演劇的な感動をもたらすラストシーン。このシーンを味わうためだけにも、この小説を読む意味はあると考える。また、是非武田泰淳の解説を読むべきだ。書かれた時からあまり時を経ていない時点での評として貴重であり、また的確であり、良き案内となっていると思う。