若きウェルテルの悩み   ゲーテ作  新潮文庫

 魔の山を読み終えて次は戦争と平和と決めてあったが、何しろ長いから、短めのものを一つ読もうと思って選んだ作品。これも名作の誉れ高く読むべきリスト上位でありながら読んでいなかった若きゲーテの作品だ。
叙述のスタイル
 書簡体、すなわち、ほとんどがウェルテル本人の独白で書かれるのだが、後半、書簡を整理し、この本を作成したものという体で筆者の視点も現れる。それがなかなか堂にいっていて、うまさを感じさせるが、この時代にどこまで一般化した手法だったのだろう。現代的に言えば視点の揺れが感じられるが、ゲーテはうまく、つまり小説として破綻することなく、処理している。

 ウェルテルは上流階級の若者だが、まだ仕事も決まらず、家から離れて遊学中というところだ。ロッテと出会い、一目で虜になってしまう。ロッテも才気煥発のウェルテルを憎からず思う。しかし、彼女にはアルベルトという婚約者がいて、やがてアルベルトが現れると彼もウェルテルを友人として遇してくれるものの、もはやウェルテルにはロッテとの関係に喜びは感じられない。常に、婚約者としてのアルベルトが、彼自身がというよりウェルテルの意識の上、倫理観の上で立ちはだかり、友人としてふるまわなければならないからだ。苦しみしか感じられないウェルテルは、必然的に、二人の元を去ることとなり、就職する。
 しかし、自尊心が強く上役とうまくやれない彼は、自分が有能で上役が下劣で馬鹿なのだと疑わないが、結局、社交的失敗がもとで辞職する。あちこちを旅するが結局はすでに結婚したロッテとアルベルトが住む街に戻ってくる。
二人は、ウェルテルを友人として遇してくれるが、しかし、彼には苦しみしかない。
 
 絵にかいたような見事な失恋をしていることは、明敏なウェルテルはよく自覚しているのに、かれは、その苦しい檻から出られなくなってしまうのである。通俗的かもしれないが常識的な判断をすれば、ロッテをあきらめて、彼らと離れた土地に行き、そこで新しい人生を始めるべきであった。実際就職したときには、他の女性との付き合いも少しばかり述べられている。
 ついには、ロッテを得られないなら、死んでしまうほうが良いとウェルテルは考えるようになる。あえて言えば、ストーカーの心理と同じである。実際、結末近く、ロッテとアルベルトを殺そうかとも考えた、と告白している。一方で明敏な自己分析も自己統制もできているけれど。
 ついには、自分の身辺を整理したうえで、ウェルテルはアルベルトから拳銃を借りて自殺する。拳銃を発射したところで終わるのかと思ったら、ゲーテはウェルテルを即死させず、死ぬまでに時間をとったうえで、葬式まで描く。これはリアリズムか。主人公に対する一種の意地悪なのか。あるいは自己自身への処罰なのか。
 後年、ゲーテはこの作品について、「あの時代の厭世という病的状態から生まれた」と言っているということだが、この言葉にはすでに若さを失なったからこその冷静な距離感が感じられる。一方で、この作品の手柄といえば、通俗道徳の面からは決して認めることのできないウェルテルではあるが、病的に高まった恋愛感情の高みから見える心とその動きをまさにその病的な高みから克明に描き得たことだろうと考える。すでに人生の晩期にある私はウェルテルに共感はできないものの、しばし嫌悪を覚えてしまう若さと恋愛感情の正面からの描写にゲーテの芸術家としての天才を感じざるを得ない。

 蛇足ながら付け加えれば、芸術家ゲーテは真に自己を投影しえた作品を書くことにより、自分は一歩先に進んでいくのである。芸術家の無意識の姦計と言ったら言い過ぎだろうか。ウェルテルを殺すことによってゲーテは生き延びた。これは芸術家の一つの形ではあるだろう。