剣    三島由紀夫原作の映画

三島由紀夫小説の映画化。大映映画。1964年(昭和39年)

大学剣道部を舞台として、太陽と生命、青年と純粋な魂、俗世間と汚濁、といういかにも三島らしいテーマが貫かれている。
主人公である国分(市川雷蔵)と彼と対照的なライバル賀川(川津祐介)のコントラストは単純であるが故に強烈だ。しかし映画作品としてみると、その単純さが書き割りに堕することなく人物像としてしっかり生きている。それがこの映画を力強いものとしている。
主人公の国分は、剣道部主将として全日本選手権優勝に集中する、と言いながら、医者の父(世間で成功した俗物を象徴している)に寄付を頼んだ折、もっと世間と馴染め、という条件を出され、断って皆でアルバイトをする。剣道部主将として考えるなら、金を受け取った方が助かるはずなのにそれを峻拒する。また、クライマックスで、合宿の折、水泳禁止という主将としての指示が徹底されなかったことを受けて、統率者としての資格がない、と書き残して自殺してしまうのである。
 全日本選手権優勝を目指す目的から考えれば、これらの行為は倒錯している。ということは国分は目的論的な原理によって動いてはいないということだ。彼は一瞬一瞬の自己の行為の純粋さにすべてを賭けているのである。それを汚すものは女であれ金であれ峻拒するし、受け入れるぐらいなら死を選ぶのだ。
 この映画の世界では、国分に対し違った原理を持ち込む大人はいない。父親は世間は汚れているが、そこに楽しみも喜びもある、という凡庸な立場で、実は息子の価値観を補強するだけの存在でしかない。
 大事なことは、国分は自ら死ぬことにより、現実の未達成を逆転して完全な勝利を手に入れることだ。ライバル賀川は、これで奴に永遠に勝てなくなったと叫び、監督は、彼を理解できなかったことを羞じよう、と俯く。
 国分にとって現実での出来事の大きさ、価値観は実は問題では無いのであって、大事なことは自分が純粋であること、強いことなのだ。そのことを突き詰めると、青年は死に至るしかないのである。

 このテーマは、三島の「仮面の告白」の前の「盗賊」で情死する二人にも通底する。死は生の反対物、比較考量するものではなくて、生を大きく覆って純化するものなのだ。

さて、このいかにも三島的世界を見て、僕が思うのは世界とはそれだけでは無いだろう、ただ汚れた場所だけではなく、そこから新しい世界を切り開くことも不可能では無いはずだ、ということだ。国分の父は、もっと別の言葉で息子を諭すべきであった。

市川雷蔵。すばらしい。青年の強い意志と、清潔さと、力強さを秘めた静謐。なんだか他の作品も見たくなってしまった。