黄金を抱いて翔べ  高村 薫著 新潮文庫

 高村 薫のデビュー作である。僕は、以前レディ ・ジョーカーを読んだことがあって、その緻密な文体に驚いた覚えがある。
 宮部みゆきと並んで、並大抵でないミステリー系作家としてもっと作品を読みたいと思っていた。
 と言うわけで、今回デビュー作を手に取った訳である。
 1990年代に書かれた本書は、すでに30年近く前であるから、交通、通信と言ったテクノロジーにおいて、隔世の感がある。インターネットがあれば、スマートフォンがあれば、主人公たちの行動はまるで違ったものになっただろう。
 それでももちろん、僕は面白く読んだ。
 これは、およそ500KGの金塊を銀行の地下金庫から盗み出そうという話である。主人公たちは、大学を出て、一見普通の社会人としての生活を送りながら、仲間を募り周到な計画を練り、実行する。
 僕が驚いたのは、主人公の幸田、北川が端から反社会的な志向を持っていて、少しも迷いがない点である。
 高村薫自身の年齢、世代を考えると、七十年代中盤に大学生活を送ったはずだから、世の中にはまだ新左翼運動の余波が残っており、活動家の心性もそう遠くないところに位置していたのだろう。小説の中に現れる「北」も、現代の「北」とは随分違った位相の中にある、得体の知れない「北」であろう。にもかかわらず、大阪という場所に置いて、「北」や、キリスト教教会や、新左翼運動や、半ば暴力団化した暴走族の絡み合いは、絵空事ではなく地に着いたリアリティを持って配置されているように感じられる。大阪という場所の、東京から遠いどこか土着的な、価値の磁場が異なった場所というイメージが元にあるのだろうが、大阪育ちの作者の面目躍如と言うべきか。なお、小説の中の「北」は今の「北」とは変わっていると言ったが、しかし国交が回復したわけではないし、両国の間に横たわる深刻な問題が解決したわけでもない。ただテクノロジーの進化が、グローバル化の進展が、善悪に無関係に情報の質を変え、量を増やしたと言うことは言えるだろう。つまり関係性の基層は変わっていないと言えるだろうから、物語の不気味さを今も感じる事ができると言えるだろう。
 金塊奪取は成功するものの、彼らの払った犠牲は大きい。北川は妻と子供を失い、弟は暴走族との抗争で鑑別所送りとなり、幸田は撃たれ重傷を負い、有力なメンバーであったモモは死んでしまう。そうまでして、(幸田とモモは物語の過程で、深い仲になっていたらしい)彼らが得たものは何だったのか。そもそも、解説でも触れられているが、経済的合理性だけ考えれば、重くて換金の必要のある金塊を奪うより、紙幣や高額な絵画を奪った方が勝るはずである。銀行の周りの地域をまるごと停電させ混乱させて作戦を成功させると言うこと、これは何なのか。
 この世の中を肯定する、この世の中の秩序を肯定し、自己の価値観に部分的にしろ内在化させ生きていくなら、そもそもこんな大がかりな事件は起こさないだろう。しかし、一旦、この世の中の秩序を離れた立場に立てば、グロテスクで、矛盾に満ちて、残酷で、むごい、そして異なった秩序観を得て見るなら、悪をはらんだ世の中であり、破壊することに躊躇するべきではないと言うことになるのだろう。だが目的を達成するまでに、彼らが殺人まで犯すのは、よくわからなかった。
 人殺しは、例え、屑のような人間であったとしても、究極の悪ではないのか。悪であるとしたらそれを、北川や幸田がどのように捉えるか、かなり重要なポイントであるはずだが、特に幸田にとっては、前半で、殺しをすることを強く忌避する表現があったはずだが、いつの間にか引き釣り込まれてしまったことにやや、緩い点を感じた。作者としては充分に書き込んだことを、僕が読み取れなかっただけかもしれないが。
 もう一点、銀行の部長の行動、家族構成まで詳しく語られるのだが、結局最後の襲撃の場面では彼は現れなかった。これはそういうプロットとみることもできるけれど、書きぶりからはむしろ、単なる作者の予定変更のように感じられた。
 しかし、圧倒的な細部、圧倒的なプロット、圧倒的な反社会的人物像で、特に物語が煮詰まってくる後半は巻置くに能わずの状態となった。
微温的な小説が多い中で、社会を徹底的に敵に回している点で(だからこそより高次の価値観を考えもする)、緻密なディテールを積み上げている点で、そうして活劇として面白い点で、実に貴重な作品。他の作品も順次読んで行きたい。