「穴」 小山田浩子作  新潮文庫

 「工場」で新潮新人賞を受賞し、世に出た小山田浩子が、芥川賞を受賞した作品である。
 パートで働いていた主人公が、夫の実家に転居することとなり、家賃を免除されることから、当面働かなくて良くなる。だがその場所は、今まで暮らしていた場所からあまり遠くないとは言え、とても田舎で、夫の家族、姑や舅、義祖父との関係性や、隣人(一人代表的な人が出てくる)との関係性も今ひとつしっくりこない。しっくりこないというか、微妙に空気や価値尺度が異なる異界に迷い込んだような趣である。その場所では主人公は、実家の「お嫁さん」として位置づけられるのである。仕事をしなくて良くなった主人公は、では溌剌としているかと言うとそうでもなく、家事をこなし、仕事の遅い夫に気を遣い、姑に頼まれたお使いで、姑の勘違いからか2万円の自腹を切ることになりながら言い出せず、しかも眠くてたまらない。
 その姑の使いに行く途中で、主人公は黒い獣を見かけ、穴に落ちるのであるが、それから先はさらに世界が歪んでいく。この穴は、後に登場する実在の人物かどうか分からない義兄が話すように、不思議の国のアリスが落ちた穴のように、異世界への入口だったのかもしれない。高齢化の進んだ田舎の町にはあり得ないような夥しい数の子供たちが遊んでいたり、義兄が延々と引きこもりになった理由を語ったりする。義兄は今、主人公が新たに加わった世界で成長することを、その世界と和解することを徹底的に拒否した事になる。
 後半、雨の日に水まきを延々と続けるような、敢えて論理的な説明をするなら認知症らしい義祖父が夜明け前に家を抜け出し、河原の穴に入る。主人公は義祖父を連れ帰るが、義祖父は肺炎になって死んでしまう。葬式には姑でさえ誰か分からないような老人たちが沢山集まり、菊の花の備え方に文句を付けたりして、主人公は、葬儀の風習にうろたえながらも、気が付かない姑の代わりに直したりする。
 こんな場にも義兄が現れないのはおかしいと、裏の小屋に行って見ると、長らく開けられたようすもなく、ムカデを漬けた瓶などが並んでいるだけだった。
 さて、主人公はいつか姑の用を足したコンビニでパートの仕事を得た。通う道に穴はなく、コンビニの店員も、子供など数えるほどしかいないと言う。
 家に帰った主人公は鏡に映った自分を見て少し姑に似てきたことを自覚して小説は終わる。
 穴とは何だったのか、穴に住まっている獣とは何だったのか、様々な解釈が可能だ。
 まずは、先に述べたように異世界への入口。しかし異世界とは、この世界をほんの少しだけ角度をずらして見て、普段は見過ごしているシグナルを受け止めることによって明らかになる世界、つまりは主人公が確かに存在しているこの世界そのものなのかもしれない。
 あるいは、穴とは、田舎の町の生活そのものかもしれない。自分が何ものであれ、その穴を掘りその穴に身体を合わせ、その穴の土に塗れて生きていくしか道はないのかもしれない。
 また、穴とは、逃げ場所、ねぐら、文字通りそこで休らう場所なのかもしれない。得たいのしれない獣はそこで休み、義祖父もその穴に身体を沈めるのだ。
 土や、虫や、獣についての、この作者特有の執拗な、決して親しげではない、しかし其処に確かにあるものを避けるわけにはいかない、と言った体の描写はこの作品についても「工場」と同様に見られる。それは人間が生活する上で確かにあったもので、都会生活では忘れられているものであるが、(と感じさせる異世界ふうの趣、あるいは不気味さを微かに纏っているのだが)避けられず、時には食べたりする身近な、直接的な感触に訴えるものとしてそこにある。
 斎藤美奈子は先に感想をアップした「日本の同時代小説」において、作品としてのインパクトは「工場」の方が上でしょう、と言っているが、(P227)「穴」も芥川賞に恥じぬ作品ではないか。敢えて言うと、「工場」より、作者が作品を書くうえで、材料を整理する腕が上がったか、材料をそれだけ手の中にあるものに絞って書いたので、不純物が少なくなり読みやすくなっただけインパクトが減ったかもしれない。
 僕に取ってこれからも読み続ける作家になりそうだ。なお、笙野頼子の解説が切れ味良くかつ面白かった。笙野頼子の作品はまだ読んでいないが、読みたくなったのが意外な余禄であった。