工場  小山田浩子作   新潮文庫   

 大変魅力的な作品だ。僕自身、メーカーに勤めるサラリーマンであるので、主人公達が勤める工場ほど巨大な工場に勤めた経験はないが、勤め人としての経験から、ビンビン響く場面・言葉があり、大変面白く読んだ。
 語り手は、三人居て、それが明確に示されず、しかし読めば分かるように並列されて、それぞれの一人称の語りで進む。正社員、派遣社員契約社員、男子、女子と色分けされ、それぞれの労働内容は、工場緑化、校正、シュレッダー係という仕事になっている。それぞれの仕事の内容、同僚の様子、同僚との関係とその変化が描かれる。また、広い工場には森があり、動物が住み、工場ウと名付けられた鳥が大量に棲んでいる。動物については、実に執拗に語られる。この小説は、「工場は灰色で、地下室のドアを開けると鳥の匂いがした。」という読み終わってからあらためて見直してみれば、実に象徴的な文章で始まるのである。
 三人の語りは交互に進むが、やがてそのうちの二人は兄妹であることがわかり、また仕事の上でも、ビジネスライクな形ではないが、関わりが、シンボリックな形で生まれていく。それが、小説としての一つの推進力にはなっているようだ。しかし、特に女性の語り手から見える工場、仕事は、はっきりとした輪郭を持ってはこない。ますます工場は果てのない、そこで何を生み出し居るのか明確には見えない、得たいのしれないもののように揺らいで見えてくる。終盤、主人公は、午後半休を取り、工場内の、長大な橋を渡る。
そこでの述懐、「働きたいと思い、それがかなっているということはありがたいのだ。ありがたくないはずがないのだ。まして私は働きたくないのである。本当は働きたくない、生きがいであるとか生きる意義であるとかいうことと労働はまるで結びついていない。かつて結びつくはずだと思っていたこともあったのだが、もう結びつかないということがよくわかった。(中略)・・仕事、労働に至るこれまでというのが、それは戦いでさえなくて、もっと不可解で奇妙な、自分の中にない、外の、他の世界のことなのだ。自分が能動的に働きかけられるような類いのことではないのだ。私はただ一生懸命に今までやってきたつもりだが、私の思う一生懸命さというものは実は何の価値もなかったのだ。」
 長々と引用してしまったが、この、恐らく作者も途中でギアが一段上がって書いたのではないかと推察される述懐は、たとえ語り手とは異なる正社員であっても、現代の働く人々が濃淡はあろうとも抱く思いではなかろうかと考える。ここでは、努力すれば報われるだの、スキルアップして社会人としてのランクを上げるだの、まず耳を傾けて相手の身になってだの、笑顔で挨拶だのがちゃんちゃらおかしい現代社会の「労働」というものの得体の知れない感触が確かに感じられる。ちゃんちゃらおかしいと心のどこかでは笑わずにはおられないような場所で、労働しているのである。
 小説の魅力を語るとしたら、各登場人物の話し言葉が、いちいち職場での話し言葉、そのコンテクストになっていることで、それは見事で、小説の人物の話し言葉として見ると異様でさえ有るが(何しろ殆どすべての人物が工場内で語るわけであるし)、しかし圧倒的なリアリティをもって迫ってくるのである。そうだ、現代の日本人は、その生活の大きな部分を占める職業生活において、こんな話し方をしているのだ。それは目に見えない磁場に引きつけられたようなゆがみを内包した語りだ。
 小説は後半に向かうにつれ、異界にさまようような雰囲気がそこはかとなく感じられるようになるが、主人公は最後に、「黒いとりになって」しまう。この唐突さに最初は驚いたが、じわじわとその不気味さ、小説としての結構、がしみてきた。様々な解釈が可能であろうが、少なくとも、工場は、その建前とは裏腹に、ひとがいつの間にかとりになってひしめき合うような場所なのだ、と言うことが納得されるのである。
 小説としてとても高度であり、読む楽しみがあり、そして現代日本のの職業生活の一面を実によく表していると思う。この作者の作品をもっと読みたいと感じた。