松浦理英子 「最愛の子ども」を読む

文学界6月号の島尾敏雄特集に目をひかれ、第2特集の松浦理英子にも損はないな、と感じて思わず買ってしまった。と言っても松浦理英子は読んだことはなく、いつかは読まねばならぬ作家という頭の中のリストに入っているだけなのだったが。その意味では島尾敏雄も他の殆どの作家もそうだ。村上春樹も初期作品以外はちっとも読んでいない。

で、松浦理英子特集の著者本人と津村記久子との最新作である「最愛の子ども」をめぐる対談が面白く感じたので、アマゾンで文学界2月号を手に入れ、読了した。(便利な時代になったものである)

はじめに述べれば、私は作者とたまたま同年生まれの既婚男性、子どもはなし、首都圏在住の平々凡々たるサラリーマンである。小説を書いてみたいという、思春期(ああ、はずかしい)に多くの人間が持つであろう淡い希望をもち、少し書いたこともあるが、才能のなさは自覚している。本を読むのは好きであるが、脳細胞の力を絞り出して読む、と言うような読み方はしていないし、飽きればすぐやめてしまう。最近は読みさしのまま放っておく本が増えた。それでも、おそらくはこのままではろくな読書体験をつまないうちによいよいになってしまいそうな恐怖に駆られたのであろうか、ある程度自覚的に(いわゆる)純文学作品を読むようになり、たまたま趣味を尋ねられれば、「小説を読むのが好きです」と応えるようになった。

 そのような私が読むと、冒頭の、女子高生たちが集まり話している場面の後半、真汐が職員室からもどったあと、「王子」である空穂の顔を、「夫」である日夏とともにいじって嬲る場面を読んで、「ちょっときついな」と感じられて先行きに不安を感じてしまった。きついな、というのはおじさんには読むのがつらいな、という感じ、レディコミックを読んだら(読んだことはないが)おそらく感じるような感じ、と言ったらいいだろうか。この程度でひるんでいたら純文学は読めないと言われたらその通りなのだが、おじさんの神経はその程度には硬直化、あるいは弱体化している。しかし、幸いなことにそのようなおそれは杞憂に終わって、作品を最後まで面白く読み通すことができた。それは、蓮實重彦が特集に寄せた批評で指摘している、「不意にあたりに拡がりだすこうした語りのなだらかな万遍のなさと、それがもたらす視界の異常なまでの透明さ」のおかげによるところが多いと感じる。危ういエロになりかけの空気が収斂して作品世界を狭く纏めるのではなく、なだらかに万遍なく、登場人物たちの生活につながり拡がっているのである。言うまでもなく作者はその点に自覚的である。その点だけでも、現代の女子高生の物語、と言う言葉では括れない、それと対極の作品であると感じる。

「わたしたち」という人称と、作品の中で明示的に「わたしたち」が主要な3名について巡らす想像、もしくは妄想もそのような明瞭さにつながっている。「わたしたち」という人称がすべての場面で問題なく、かつ効果的に使われているのか、もう一度確かめてみたいけれど、少なくとも僕は納得して読んだし、上に述べたような作品世界を照らす照明として必要なものだったと言うことは理解できる。

 面白く読んだ場面の一つは、走り高跳びの場面。女子高生とひとくくりにされるが、一人一人は背も違えば、運動神経も違う、物事に向かう態度も違う、北野武は役者は走らせてみればわかると言ったそうだが、確かに、運動はその人の全人格的なものが瞬間的に現れるものなのかもしれない。この場面では、一人一人の飛ぶ姿と、見守る「わたしたち」の心の内や、先生の叱咤やらが細やかに描かれていて、こういうものかもしれないな、と感じた。こういうものかも、というのは、僕にとって一人一人の違いが意外に近くに、地続きに感じられたと言うことであって、化粧気のない彼女たちの、女子高生というくくりでは取りこぼされてしまう、一人一人の体温や重みを感じたと言うことかもしれない。

 逆に僕に取って遠い人は、美織の両親、特にお父さんであって、否定はしないが、こういう人はなかなかいらっしゃらないのでは、とやっかみ半分に感じてしまった。まあ、この感じ方は勤め人としての僕の狭い体験によってバイアスが掛かっていると思われるのでこれ以上述べない。

おそらく女子高生というのは、現代の日本で過度に記号化されているのであって、それは過度に商業的に利用されている。大げさに言えば資本主義的な経済過程に巻き込まれているということでもあるかもしれない。女子高生だってあくびもすればおならもする。が、過度に記号化された「あるべきもの」に押し込められることが本人においても、家庭においても内面化され、脱げないコスプレ化しているとすれば、その息苦しさは想像を絶する。しかも、おそらく高校生活を終えた後で待っているのは、かつての「下町の太陽」的貧しいけれども明るい世界でもなければ、脳天気ではあったが世界に進出するパワーのあったバブル期でもなく、国内的には縮小せざるをえない経済とそれを補うためにIT技術に追いまくられて密度の高い労働を自己責任で長時間しなければならない世界である。そのような世界について「わたしたち」は自覚的であるし、自暴自棄にもならず生きていこうとしている。その静かさと明瞭さに僕は感動した、と言って良いだろう。

ずっと以前、平野謙三島由紀夫金閣寺を読んで「これは文学だ」と言ったというエピソードを何かで読み、僕は金閣寺を読んでも平野謙が言った意味がちっとも分からなかった。けれども今なら少しだけ分かる気がする。「最愛の子ども」は文学だ。言語芸術としての周到な作り込みのみならず、作者が込めた体温と、独りよがりに陥らない世界の拡がりを刮目して、存分に読むべし。