「絹と明察」  三島由紀夫 作  

久しぶりに三島由紀夫の作品を読んだ。

金閣寺仮面の告白、禁色、鏡子の家、静める滝、潮騒、豊穣の海、愛の乾き、美徳のよろめき、午後の曳航、宴の後、獣の戯れ、などの長編を若い頃読み、幾つかの短編も読んでいるから、親しんでいる作家と言えるだろうけれど、改めて考えてみるとどれだけ理解できているか、わからない。

今回、「絹と明察」を読んで見て、感じたことを以下に記す。

1.人物に親しみがもてない。感情移入できない。

2.文章は見事。広範な教養、卓抜な比喩、時に人物に食い込んでいくような犀利な描写に、しばしばほれぼれとした。

3.にもかかわらず、この作品においては、三島の文章は乗っていない、と感じた。人物も生きてこない。

3.きちんとテーマ設定して、明確な問題意識を持って材料を集め、思い通りに書き切っているが、(それもすごいことだが)それ以上に立ち上がってこない、という感じ。

4.そこが、かえって、今の僕には新鮮であった。そうか、三島もこんなに苦労しているのだな、と言うような感じ。

5.翻って考えて見ると、今まで読んだ作品は、結局三島の文章に幻惑されて、結局読めていない、三島の込めたものを受け取っていないのではないか、と言う思いを抱いた。

6.時代は随分変わってしまったから、お勉強という形にはなってしまうのかもしれないが、それにしても。

7.未読の長編に改めて、かかることにする。そして三島の苦労を改めて、見極めてみよう。

8.この作品についてもう少し言うと、この最後に死んで行く経営者は、外形的には確かに戦後の日本に沢山排出した一典型だろう。家族、家庭、父という擬制のもとに、本人も良心的に経営を進める。しかし、そこに現れるものを抽象していけば、確かに労働力の搾取なのだ。

 それを肯定する、と言うより、ついに打ち倒すものができないものとして描いている作品と言うことができるのかもしれない。

 しかし、やはり、三島にとってはどちらかというと不得手なテーマであり、本来は文体を変えてくるべきだったのではないか。

2018/04/08

Band Maid という ガールズバンドについて

メモ的に記しておく。

Band Maid というガールズバンドがあり、半年ほど前から、ファンになって聞き込んでいる。もともとギター好きなので、数年前にギターの演奏を検索していて、彼女たちのヒット作「Thrill」に行き当たり、まず、名前を覚えた。


BAND-MAID / Thrill(スリル)

これを聞いた感想は、楽器はそれぞれ上手いが、ハードロックというものをやってみました、的な、最も典型的なロックのフォーマットに載せて作った曲という感じがした。ヴォーカルのサイキちゃんも、良いところのお嬢さんが、趣味としてバンドやっている感じがした。そういう見方自体がおじさんの偏見があるわけだが。しかし、数年経って、次の曲でその変貌・進化ぶりに瞠目した。

youtu.be

 

ここでは、曲が自作となり、ロックというものを自分たちなりによりこなしている。さらにメッセージが強烈だ。少なくとも、すでに陳腐化している、恋や恋愛する女の子の揺れる気持ち、なんて言うものは蹴飛ばして、パンチを打ち込んでくる。

このボーカルの SAIKIの表情の進化、余裕を持った歌い廻し、アクションだけを取っても注目すべきだ。加えて、ドラムの並外れた巧みさ、端正なハードロックギター、と来ればキャッチーなロックナンバーとして文句がない。

ここから、僕は彼女たちの曲を聴きだした。

そして、次の曲を見つけた。

www.youtube.com

出だしのインパクト、「全身全霊感じる厭な世界」で始まる、歌詞の表現するこの世の中に対する強烈な違和感、生半可ではないドラムのドライブ感、ベースとギターとドラムの絡み合いに、ボーカルが負けずにしっかり乗っている。まさにバンドとして個人の技量の総和以上のパフォーマンスを成し遂げている。曲の構成も一本調子ではなく、緩急があり、ラストの合唱部分ではさらにエネルギーが充填されていく。これだけのものをぶつけてくるバンドがあるのか、表現しうるバンドがあるのか、と殆ど感動した。

ここから、バンドの歴史を辿ったり、インタビューを検索したりして自分なりに、理解を深めようとしているが、詳細は省く。今般メジャー2枚目となるアルバムをリリースしたところであって、早速購入して、これから聞き込むところである。

なぜこれほどファンになったのか、自分でも不思議である。

とりあえず、一つだけ書いておきたい。日本において、抑圧の大変強い女性という立場に違和感を覚える女の子たちが、ストレートな方法ではまるで通じないので、一周回ってメイドという逆説的な戦闘服を纏って活動しているのではということ。

 もう少しでメジャーになりそうなので、今はとりあえずそれだけ書いておこう。

 

 

 

 

松浦理英子 「最愛の子ども」を読む

文学界6月号の島尾敏雄特集に目をひかれ、第2特集の松浦理英子にも損はないな、と感じて思わず買ってしまった。と言っても松浦理英子は読んだことはなく、いつかは読まねばならぬ作家という頭の中のリストに入っているだけなのだったが。その意味では島尾敏雄も他の殆どの作家もそうだ。村上春樹も初期作品以外はちっとも読んでいない。

で、松浦理英子特集の著者本人と津村記久子との最新作である「最愛の子ども」をめぐる対談が面白く感じたので、アマゾンで文学界2月号を手に入れ、読了した。(便利な時代になったものである)

はじめに述べれば、私は作者とたまたま同年生まれの既婚男性、子どもはなし、首都圏在住の平々凡々たるサラリーマンである。小説を書いてみたいという、思春期(ああ、はずかしい)に多くの人間が持つであろう淡い希望をもち、少し書いたこともあるが、才能のなさは自覚している。本を読むのは好きであるが、脳細胞の力を絞り出して読む、と言うような読み方はしていないし、飽きればすぐやめてしまう。最近は読みさしのまま放っておく本が増えた。それでも、おそらくはこのままではろくな読書体験をつまないうちによいよいになってしまいそうな恐怖に駆られたのであろうか、ある程度自覚的に(いわゆる)純文学作品を読むようになり、たまたま趣味を尋ねられれば、「小説を読むのが好きです」と応えるようになった。

 そのような私が読むと、冒頭の、女子高生たちが集まり話している場面の後半、真汐が職員室からもどったあと、「王子」である空穂の顔を、「夫」である日夏とともにいじって嬲る場面を読んで、「ちょっときついな」と感じられて先行きに不安を感じてしまった。きついな、というのはおじさんには読むのがつらいな、という感じ、レディコミックを読んだら(読んだことはないが)おそらく感じるような感じ、と言ったらいいだろうか。この程度でひるんでいたら純文学は読めないと言われたらその通りなのだが、おじさんの神経はその程度には硬直化、あるいは弱体化している。しかし、幸いなことにそのようなおそれは杞憂に終わって、作品を最後まで面白く読み通すことができた。それは、蓮實重彦が特集に寄せた批評で指摘している、「不意にあたりに拡がりだすこうした語りのなだらかな万遍のなさと、それがもたらす視界の異常なまでの透明さ」のおかげによるところが多いと感じる。危ういエロになりかけの空気が収斂して作品世界を狭く纏めるのではなく、なだらかに万遍なく、登場人物たちの生活につながり拡がっているのである。言うまでもなく作者はその点に自覚的である。その点だけでも、現代の女子高生の物語、と言う言葉では括れない、それと対極の作品であると感じる。

「わたしたち」という人称と、作品の中で明示的に「わたしたち」が主要な3名について巡らす想像、もしくは妄想もそのような明瞭さにつながっている。「わたしたち」という人称がすべての場面で問題なく、かつ効果的に使われているのか、もう一度確かめてみたいけれど、少なくとも僕は納得して読んだし、上に述べたような作品世界を照らす照明として必要なものだったと言うことは理解できる。

 面白く読んだ場面の一つは、走り高跳びの場面。女子高生とひとくくりにされるが、一人一人は背も違えば、運動神経も違う、物事に向かう態度も違う、北野武は役者は走らせてみればわかると言ったそうだが、確かに、運動はその人の全人格的なものが瞬間的に現れるものなのかもしれない。この場面では、一人一人の飛ぶ姿と、見守る「わたしたち」の心の内や、先生の叱咤やらが細やかに描かれていて、こういうものかもしれないな、と感じた。こういうものかも、というのは、僕にとって一人一人の違いが意外に近くに、地続きに感じられたと言うことであって、化粧気のない彼女たちの、女子高生というくくりでは取りこぼされてしまう、一人一人の体温や重みを感じたと言うことかもしれない。

 逆に僕に取って遠い人は、美織の両親、特にお父さんであって、否定はしないが、こういう人はなかなかいらっしゃらないのでは、とやっかみ半分に感じてしまった。まあ、この感じ方は勤め人としての僕の狭い体験によってバイアスが掛かっていると思われるのでこれ以上述べない。

おそらく女子高生というのは、現代の日本で過度に記号化されているのであって、それは過度に商業的に利用されている。大げさに言えば資本主義的な経済過程に巻き込まれているということでもあるかもしれない。女子高生だってあくびもすればおならもする。が、過度に記号化された「あるべきもの」に押し込められることが本人においても、家庭においても内面化され、脱げないコスプレ化しているとすれば、その息苦しさは想像を絶する。しかも、おそらく高校生活を終えた後で待っているのは、かつての「下町の太陽」的貧しいけれども明るい世界でもなければ、脳天気ではあったが世界に進出するパワーのあったバブル期でもなく、国内的には縮小せざるをえない経済とそれを補うためにIT技術に追いまくられて密度の高い労働を自己責任で長時間しなければならない世界である。そのような世界について「わたしたち」は自覚的であるし、自暴自棄にもならず生きていこうとしている。その静かさと明瞭さに僕は感動した、と言って良いだろう。

ずっと以前、平野謙三島由紀夫金閣寺を読んで「これは文学だ」と言ったというエピソードを何かで読み、僕は金閣寺を読んでも平野謙が言った意味がちっとも分からなかった。けれども今なら少しだけ分かる気がする。「最愛の子ども」は文学だ。言語芸術としての周到な作り込みのみならず、作者が込めた体温と、独りよがりに陥らない世界の拡がりを刮目して、存分に読むべし。

 

「シン・ゴジラ」を見た。 傑作だ。(ネタバレあり。)

夏休みっぽいことを一つでもしようと、評判のシン・ゴジラを見てきました。正直、あまり期待していなくて、まあ、怪獣映画だし、そこそこ飽きないで見られればお慰み、と言うような積もりだったのですが。
 私が浅はかでありました。これは面白い。とても面白い。とても興味深い。何通りにも解釈が可能な映画であります。いや、解釈は二の次なのであって、とにかく見ていて面白い、私の面白いと感じるツボをいくつも押してくれた作品でした。
 私は、エヴァンゲリオンは、知りません。世界系と言う言葉のニュアンスも分かりません。世代的にウルトラマンを子供の時に見た記憶はあります。でもアニメオタクでも、サブカルオタクでもありません。
攻殻機動隊は好きで、映画をわざわざ見に行ったこともあります。きわめて例外的な行動です。機動警察バトレイバーの映画第二作?、竹中直人が吹き替えをする斜視の警察官が戦後日本の安全保障についてなかなか説得力のある独白をするあの作品も、たまたま知人に教えて貰って見て好きになりました。私の好みと知識の度合いはその程度です。

で、シン・ゴジラを見ると、前半は「想定外」の出来事に対し、既存の政治組織が煩瑣な手続きに振り回されながら、なかなか的確な対応ができない様が描かれます。ゴジラを3.11の地震、およびそれによって引き起こされた原発メルトダウンと見立てて政治を批判しているという解釈は大いに説得力があります。しかし、官僚組織(民間を含む)というものは、一定の行動パターンでしかなかなか動けないものであるし、卓越した判断力や行動力をもった指導者を前提とした統治システムなどファンタジーというより、むしろ有ってはいけないものと思います。首相が愚鈍に見えるのも、超行政国家化した現代の政府において、全方向の配慮が必要ならやむを得ない、むしろ賢明な姿かもしれないとさえ思います。
途中主人公(らしき)若き官僚(長谷川博巳)が指摘する、第二次大戦においても、結果的に三〇〇万人を超す犠牲者を出した根拠のない楽観とそこからの希望的判断こそが責められるべきでしょう。眼前に起きていることが見えなくなってしまうのです。
また、平時と、非常時の意識的な組織の動かし方の違いもはっきりとさせておくべきです。そこのところがずるずるなのは、現実そのものであり、鋭い批判として見たいと思います。
 現実とは違うのは、主人公をはじめ、優秀な官僚、お宅ではあるが優秀なスタッフが解決策を見つけ、化学工場を稼働させ、各国のスーパーコンピュータをつなげて解析を行い、タンク車を調達して、ゴジラを倒すところ。
これは、物語として、エンターテイメントの視聴者のための落としどころ、敢えて言えば付けたりのようなもので、こうならなくてはヒットもしなかったでしょう。
だから、見るべきはそのような最終的な解決ではなくて、ゴジラの始末が付けられないでいる日本に対し、アメリカを中心とした国連が核爆弾の使用を通告してきて、日本政府がこれを受け入れてしまうところです。エリート官僚である竹野内豊は、その理由をここで同情をかって、後に莫大な援助を得る、と述べます。ああ、いかん。彼はエリート中のエリートですが、体制迎合的なエリートの思考方法を体現しています。幕末に、ロシアに迫られて北海道の割譲を考えた江戸幕府の官僚と同じです。そんな彼も、米政府の政府内駐在にはぎりぎり反対するのですが。この部分は、確かに3.11時の日本政府の対応への皮肉ですね。
竹野内豊演じる補佐官は、日本はアメリカの属国である、と言うことをはっきり述べます。そのような認識が、すでにこの国では当たり前なのかもしれません。彼の対応もそう考えれば属国のエリートとして当然なのかもしれません。どこで読んだか忘れましたが、ヒラリー・クリントンが、「中国の政治家は嫌いだが政治の話をしていると感じる。日本の政治家は、不動産屋と話しているみたいだ」とかつて言ったそうです。一国を本当に背負っているという認識が薄い政治家は、不動産屋みたいに見えてしまうんでしょうね。だから、竹ノ内豊がいくら優秀でも、すぐに利害に換算する不動産屋にしかなれないのです。

映画のディテールについて。特撮など、着目したい点は沢山有りますが、一点だけ。主要3人の、ごく僅かですが、英語を話す場面、それなりに頑張って練習したあとが見えます。こういうところは、映画のリアリティのために大事です。一番苦しかったのが石原さとみ。何しろ大統領も目指そうかという、日系アメリカ人の役だから、ほかの二人とは違って、本来べらべらの米国英語でなくてはならないのだけれど、それは無理な話。でもかなり頑張って良い線行ってたと僕は思います。米国で仕事をしているバリキャリの女性からの厳しいコメントも見かけたけれど、いや、日本人の英語としてはあれば立派ですよ。と擁護しておきます。

 最後に、私が個人的に一番ぐっときた台詞。いろいろ準備した事に対し、主人公から礼を言われた、自衛隊幹部(國村隼)が「礼は言わないでください。仕事ですから」と静かに微笑をたたえながら言うところ。かっこいい。あんな台詞言ってみたい。個人的にはとてもいえないばたばたのサラリーマンライフを送っている私ですが、それだけに、しみました。それだけ、私が、なんだかんだ言っても仕事大事なサラリーマンだって言うことでもあるのかもしれません。

 だらだらと書いてしまいました。今は、少し時間をおいて、もう一度劇場でみたいと考えています。

 

「コンビニ人間」 感想文   (ネタバレあります)

文藝春秋を買って、芥川賞受賞作、「コンビニ人間」を読みました。
私は芥川賞受賞作を掲載した文藝春秋を買うのがわりと好きです。特に選評を読むのが面白い。当たり前ですが、評価は人それぞれと言うところがあって、良い点悪い点を選者がそれぞれ語っている点が面白いと思います。けれども、今回は、殆どの選者が「コンビニ人間」については、高評価という結果のようでした。選評で見る限り反対は島田雅彦さん一人です。
「火花」に否定的だった奥泉光も、「コンビニ人間」については、傑作と言って良い、と言うようなことを書いていました。

さて、で、私の感想なのですが。
「火花」と比べると、私は「火花」の方がいいです。小説としての欠点、奥泉光さんが言うところの、年下のものが年上のものに憧れ、やがて幻滅するという普遍的というよりも凡庸なパターンの物語にすぎない、かもしれないけれど、火花の方が込められた熱量が高かったように思います。単に、好みかもしれませんが。

一方、「コンビ二人間」の優れた点は、自分の置かれた状況・関わりを持つ周りの人間を客観的にクールに書いている点であると思います。特に店員が入れ替わっている中で、言葉遣いが移っていくと言う観察、そういう環境で自分の言葉も職場に適した形にコントロールしていくと言う辺りは、人間のアイデンティティの揺らぎ・曖昧さに、観念的ではなくごく身近な空間・感覚で触れているようで秀逸に感じました。
 また、コンビニの仕事をマスターしていく事により、自分が社会の中で必要とされていると自覚し、そのことが精神的な安定をもたらし、生きる喜びにもつながっていると言うところは、一サラリーマンである私にも、実感を持って感じられるところであります。けれど、主人公が、そういう自分が「歯車」である事をはっきり自覚し、バイト店員であること、すなわち、正社員・非正規社員という殆ど明示的な階層の下の部分に属していながら、そのこと自体への不満や、反発や、脱出の欲望を感じさせないのは、驚きでありました。
 現代の多くの会社においては、確かに「歯車」というべき労働者が大部分で、経営上の意志決定を本当に行っているのは全体から見れば、階層の上部のごく一部の人間であるけれども、なるべく末端の社員にとっても「人間的」で「やりがい」のある職場したい、とあの手この手の手段を使っているわけです。「歯車」である事は敢えて言えば明瞭であるけれど、公平・平等、努力すれば報われる、という社会の建前になるべく沿おうという努力はしている訳です。そうして社員を少しでも不安なく包み込もうとしているのです。
 しかし、そのような手段こそ、この主人公にとっては、余計なお世話なのかもしれません。なぜならこのような手段はしばしば、何が嬉しいか、何が幸せか、と言うことに対して、鉄板の通俗道徳的価値観を土台として、強烈な同調圧力をもって迫ってくるものであるからです。いわく、女性は適当な年齢で結婚した方が良いのであるし、子供ができることはめでたいことであるし、男性は仕事を楽しく張り切ってやって、付き合いの酒もほどほどにこなし、接待ゴルフも上手にできればなお結構。ゴルフやるの、楽しいよね、酒飲むの楽しいよね、ってわけです。念のために書いておきますが、そのような事が本当に楽しい、幸せな人を否定しているわけではありません。問題は同調圧力なのです。私たち大部分が楽しいから、あなたも楽しいよね、楽しくなければ、あなたおかしいよ、仲間じゃないよね、という非常に強力な、しかし殆ど無意識な圧力が、やはりあると言わざるを得ません。
 そのような、圧力に主人公はなるべく同調しようと努力するのですが、注意するべきは、主人公は自分を変えようとはしていないことです。主人公がするのは、言わば非常にテクニカルな、今の自分を保ちつつ、なるべく社会と軋轢を生まないための努力であって、社会に適応するための、「治る」ための努力ではありません。その点において主人公は非常に頑固です。しかし、そのような自分に立ち入ってくる他人には、一切の攻撃性を発揮しません。無関心、もしくは自分との距離感に唖然としている、だけです。

 仕事についてもう一言付け加えると、私自身の若い頃の思いとして、「ロボットのように仕事ができたらいいな」ということがありました。一定の材料を与えられたら、一定のやりかたで、一定のアウトプットを出す。自己評価も上長の評価も明瞭で、分かりやすい、感情的ストレスのない職場を夢見たものでした。
 ところが、仕事というものは、多かれ少なかれ、無数の解読不能な情報が乱れ飛び、変容し続ける状況と情報に随時対応していかなければならないようなものであって、人間関係もその中にもちろん含まれます。しっかり仕事をしようとすればするほど、その粘液質の空間の中に身も心もずぶずぶと浸して行かねばなりません。だとすれば、把握可能な仕事の範囲で、自己が「歯車」としてぴたりとはまる事に悦びを感じる主人公は、そのような限定した世界にひたり、その範疇で自己を社会と結びつけているわけで、やはり意外に私に近い存在なのかもしれません。
 
 もう一人の、しょうもないアルバイト、幼稚な論理を振り回して自己を正当化し、しかしいざとなるとちっとも仕事のできない、やる気もない、だらしない、金も根性も無い、しかし妙に場の雰囲気は察知する能力のある男。主人公に引っ張り込まれて、同居するようになると、手前勝手な論理にさらに磨きが掛かって主人公に仕事を辞めさせ、新しい仕事に就かせて寄生しようとする、書いているだけで厭になりますが、この男の描写に思わず苦笑してしまうようなリアリティがある事を認めざるを得ません。会社の中には絶対にいて欲しくないタイプの人間です。その通り、彼はコンビニも首になりました。ただ彼のような殆ど見捨てられたような生き方を唯一の生存戦略とする人が、今の世の中には確かにいる、と言うことを感じます。彼もipadは持ってますしね。世捨て人というわけではない。このような人がむしろ沢山いそうだ、ますます増えそうだ、と感じられます。

 と言うことで、僕個人としては、主人公に違和感はありながら、同時に主人公の姿は、今の日本で、あなたであり、私でありえる、と言うことも否定できません。そういう姿をコンビニという現代的な場で、平熱で描いた本作が大変に面白い、且つ興味深い文学作品である事に同意します。

佐藤優著 「人に強くなる極意」 青春新書

またまたけっこう売れているらしい、佐藤優の本である。ファンなのでとりあえず買って、風呂場本として読了。
書いてあることは、僕としては、そりゃそうだよね、当たり前だよね、そうか、僕だって考え至っていたよ、と言うようなことが多く分かりやすい内容。文体。しかし、自分ですべて実践できているかというと、レベルは低いと認めざるを得ない。
共感した点、政治的な事だが日本が本当に恐れなければならない相手はアメリカという認識。反米ということでなく、冷静な政治力学という意味で。
 もっと実践的な点では、労働力のコモディティ化というような話。
僕自身、もう50代半ばだが、どれだけこれから市場価値を上げられるか、うかうかしているわけにはいくまいて。やれやれ。
 20代、30代の若い人々に読んで役に立つ実践本だと思う。

「ミレニアム」 ハヤカワ書房 スティーグ・ラーソン著

昨年の夏頃かな、kindleで安売りしていたので1を買い、面白かったので2,3も続けて買ってしまった。 この本は、リスベット・サランデルという、ミステリー史上に残る女性キャラクターを創造したことで末永く顕彰されるだろう。とにかく、いけてます、サランデル。
 で、ストーリーを楽しむ事はできたけれど、一方でとても興味深かったのは、この小説の舞台、スウェーデンのこと。高福祉、男女平等、が有名で有るけれど、この小説の中では、必ずしもそうとばかりは言えないあれこれが描かれている。例えば女性が会社組織の中で高い地位に昇ることであり、あるいは男女の性的関係性である。
 と言うことで、あらためてスウェーデンに関する興味が再燃、関連図書をまた読み始めた。