王朝史との異なる視点:人口の視点から見る中国史

感想文 人口の中国史  上田 信著  岩波新書

 
 何事にも出会いというものはあるもので、この本は古本屋の店先の安売りワゴンで見つけたものである。110円であった。2020年初版であるし、傷みもなく、中国史の本を続けて読んでいた時であったので、買っておいてもよいか、と言う気持ちであった。

 さて、感想としては、期待以上に得るものがあり、面白かった。
理由を以下記す。
 人口という観点で先史時代から十九世紀までも俯瞰すると、王朝史とはまた別の歴史の流れが見えてくる。
 例えば、後漢は、劉邦が打ち立て武帝など華々しい皇帝が現れた前漢に比べてぱっとしない王朝とみられることが多いが、人口史の観点で見ると、戦争をなるべく控えて、民を増やした王朝と言えるとのことである。大層立派なことではないか。例えば、西暦八十五年には妊娠した女性に対して「胎養穀」として一人に三斗の穀物を配給し、その夫には人頭税の負担を免除するという政策を打ち出したそうである。考え方も方法も、現代日本よりむしろ進んでいるのではと思われるくらいの政策である。(2024/03/08 追記:このことは、後漢の政治家が近代的であった、先進的であったと言う事ではなく、そのような言い方自体が言わば発展・進歩史観にとらわれているのであって、国が栄えると言う基本には、民が安寧に暮らし人口が増えていくと言う事が基本の基である事を素直に考えれば、誰でも思い至る政策ではないか。このような政策に素直に至らない社会に暮らしているとすれば、現代はむしろ何かにとらわれ、不幸な時代なのかも知れない。)
 
 さて、そもそも、人口史と銘打たれているものの、人口の統計は先史時代から正確にたどれるわけはなく、その時代時代の史書や、税務にかかわる文書、行政の記録、個人が残した文書、そして日本人にはなじみがないが、一族の系譜を事細かに纏めた文書などによって、間接的に探っていく。論語にも明らかなとおり、文化的に男尊女卑の価値観が根強くあり、女子はものの数ではなく、文字通り記録されない場合が多々あり、何らかの仮定の下に、ピースがあまりにも欠けているジグソーパズルを並べていくような地道な推定をせざるを得ない。学問とはこういうものか。
 限界をわきまえた上で、人口の動きを見ると、人口は時代のみならず地域別に大きく流動している点が興味深い点である。
 また特に資料が次第に整備されてきた清の時代の詳細な分析は清王朝の政策、経済や技術の進歩、などが朧気に見えてくるようで素人にも面白い。清の時代の資本主義の胎動を感じさせるような経済活動とそのための人の移動は、やがて清の衰弱、太平天国の戦乱などによって潰えてしまうのだが、誠に興味深い。また、銅銭と銀貨経済との対比は、すでに読んだ「シリーズ中国の歴史⑤ 「中国」の形成」(岩波新書)でも触れられていたが、やや捉える観点が違うようだ。このあたりは専門的な領域になると思うので、また別の本で読めたらと思う。

 長い歴史を通じて、一つ感じたのは戦乱は人口を減少させるという当たり前の事、また征服王朝は被支配民に対して容赦ないということだ。近代以前、人の命はそんなに大切なものではなかったのだ。また、日本人には分かりにくいが、強制的な移住(自発的な移民ではない)が長い歴史のなかで当たり前のようにしばしば行われている。もっともこれは中国だけではなく、他の国でも行われているし、スターリンも行っている。そのような言葉が明確に残っていない日本という国は幸せなのかも知れない。

 通常とは異なった観点から通史を見通すことで鮮やかに見えてくるものがあることを知り、大変有意義な本であった。

 

 

中国史を地球的視座から読み解く、経済と社会の変化と展望

感想文「シリーズ中国の歴史⑤ 「中国」の形成」  岡本隆司著  岩波新書

 

昨年10月に中公新書で「物語 中国の歴史」について感想文をアップしているのに続いて、さらに詳しい本が読みたくなり手にした一冊。中国史は人気があるのだろう、本屋には様々な本が並んでいるが、その中では手にしやすい、しかしそれなりに最近の学問的成果がもられたシリーズなのだろうと思う。
 全五巻の目論見は、単なる王朝史ではなく、グローバルな時代(現代)に相応しく世界の中の多元的な中国の顔と姿に迫ること、とのことである。
 第⑤巻は、概ね17世紀初頭から20世紀初頭まで、清の勃興からその滅亡までを扱うこととなる。
 著者によれば、17世紀は危機の時代だったのであり、14世紀から始まった地球の寒冷化がピークに達し、新大陸の銀産出の減少なども加わり、不況になった。しかし、イギリスはその危機を乗り越え、財政軍事国家を作り上げた。これは、「国家が、税収・公債で効率的に集めた巨大な財源をもって、その資金を効率的に火器・海軍をはじめとする軍事力の革新・増強に投入し、それを通じて世界中を収奪することで、いよいよ富強を増すシステム」とのことである。
 そしてこのシステムを基盤に「イギリスは産業革命をなしとげ、19世紀の世界を制覇する」とされる。
 一方、東アジアにおいては、明が滅び清がおこり、その支配体制が確立していき、大いに栄える訳であるが、そして本書が中国史の本である以上、清が少数民族でありながらいかに巧みに(そこには幸運もあったと思われるが)支配体制を拡げていくかがその軍事、民政、各皇帝の政策などを通じて語られるのであるが、通底する問題意識として、そのような中国もこの時代やはりグローバルな世界経済に結びついていたと言う事(例えば乾隆時代の好況はイギリス帝国からの銀の流入なしには考えられない)と、世界に冠たる帝国であり、人的にも文明としても優れていた中国で資本主義がなぜ勃興しなかったということである。 私なりに言い換えれば、中国はイギリスのような財政軍事国家を作り上げることができなかったのはなぜか、と言うことになる。
 中国が中央統制的な資本の蓄積ができなかった点については、新しい研究成果が様々述べられていて大変興味深かった。一つあげれば、銀と銅の二重通貨制が事実上ひかれていたこと、銅銭は地域的な流通の壁が有ったこと、また社会構成が上層と下層と、それらを結びつける中間の、それぞれの地方の有力者などの多様な層が存在して、国家の直接の経済支配ができていなかったことなどが指摘されている。いずれにしろ、清朝は国家的な規模での巨額の資本の蓄積ができなかった、実は中国の金持ちの資本はそこが浅く、何かあると金に困っていたと言うのである。
 宮崎市定乾隆帝の贅沢三昧をさして、良くもここまで、と嘆じたとも記されているが、皇帝の貴族的な奢侈は近代的な国家規模の資本蓄積とは、質的にもまた量的にも異なっていたと言わざるを得ない。清は、アヘン戦争で、英国の獰猛で巨大な資本の力に敗れたとも言えるだろう。
 
 イギリス・ヨーロッパは、中国を偉大な帝国とみていたが、イギリスはやがてインドと中国と本国の三国間貿易を編み出し、茶を輸入するが、銀で支払うのではなく、インドのアヘンを流入させるようにさせ自国の銀の流出を防いだ。次第に中国の軍事的にはさほどでもない姿が見えてくると、各国が競って侵略し、大日本帝国も含まれていた。
 しかしながら、清朝が滅び、帝国主義的侵略と国内の分裂を経て、様々な紆余曲折を経て数々の混乱・悲劇が有ったとしても、現在統一国家を保持し、清朝時代とほぼ同様の版図を保っているのは驚異的だと言えるかも知れない。

 英雄列伝的歴史物語知識にとどまらず、地球的視座を組み入れた新たな世界史の一環としての中国史という点で、また経済の発展と社会構造の変化を見いだそうとしている点で私にとっては新しい中国史の視点を得ることができ、大変興味深く読むことができた。

 

 

感想文「ジョブ型雇用社会とは何か」  濱口桂一郎著  岩波新書 

サラリーマン時代に人事労務的な仕事をやったこともあり、ジョブ型雇用とは何か、よく理解したいと考えてかつて購入した本である。
 日本における多種多様で錯綜した労働環境(正社員・派遣社員・パート社員、請負契約、etc.,)、それらの歴史的変遷、外国人労働者・女性活躍の課題、などなど日本の労働者は一体どんな歴史的環境のなかで働いているのか、ますます解りにくくなっているなかで、単にジョブ型労働契約の定義を語るだけでは話は済まず、日本における労働形態の変遷、世界の労働組合の歴史などにも目配りされて語られる。悪名高き外国人技能実習制度の変遷、定年後再雇用の問題、なども射程に入る。と言う事で、大変勉強になったのだが、全体を簡素に纏める事は難しく、また抽象的に纏めても意味がないと思うので、ジョブ型とはなにか、について私なりに読み取った点を記しておきたい。

 ビジネス界で、はやり言葉のように使われるようになった「ジョブ型雇用」という言葉は濱口氏が著書において、日本の労働契約の形態をメンバーシップ型、日本以外の主に欧米の労働契約の形態をジョブ型と名付けた事によって始まったとのことである。
 西欧諸国では、そもそも労働契約を結ぶ際にどういう仕事をするのか、細かく決めて労働契約書に書き込んでおく。しかし、日本では、私もそうであったし、サラリーマンならよく知っていることであろうが、労働契約書は紙一枚、書かれていることはごく簡単で、会社の命令に従い誠実に仕事をすること、と言った内容であるのが普通である。
 どのような仕事をするか、どこで勤務するかなどは一切書かれておらず、通常入社後に配属発表があり、北海道で営業だったり、東京で総務だったり、名古屋で技術開発だったりするわけである。この採用、契約、配属の形態には、新卒一括採用、大学の勉強内容が仕事と結びつけられていないことなど様々な問題が絡み合っているが、ここでは省く。
 日本の企業では、大事な事はある会社のメンバーになることであって、そこでどんな仕事をするかは会社にお任せというわけである。これが、著者がメンバーシップ制という所以である。
 会社にとっては都合の良い制度であるし、社員にとっては指示通り仕事をするから、お給料はきちんと下さい、それなりに出世させて下さい、一生雇用して下さい、と言う制度である。
 ジョブ型は、必要になった仕事について必要な人員を採用するのが基本だから、その仕事がなくなれば、雇用契約を終了するのは正当である。著者によれば、ここで勘違いしてはいけないのは、解雇することが簡単だというわけではないと言うことだとのことである。例外として米国では、差別的な扱いによって(例えば人種、性別、年齢)によって解雇したら法律違反で大問題になるが、仕事がなくなり解雇するのは正当であるので、少なくとも法的には責められない。しかし、ヨーロッパなどでは様々な解雇規制があるとのことである。
 ジョブ型においては、仕事に欠員が生じたら、その仕事ができる労働者を採用するので、新卒一括採用と言う事が馴染まない。日本では採用してから育てることが前提となっているが、ジョブ型では、そもそもある仕事ができる前提で採用しているので、大半の業務においては改めて考課・査定的な事はしない。ジョブ型でもミスマッチはあるだろうが、ある仕事ができなかったとすれば、事前に仕事の内容はきちんと示して、また応募者もみずからのスペックを詳細に示しているはずだから、どこに問題があったのかは、日本より明快に分かるはずだ。
 ところが日本では、新人は将来性・能力を出身大学や学部で推し量って採用するわけで、通常年に2回から3回、能力が発揮されているか、実績が挙がっているか、ほぼ全社員に考課・査定を行うのである。ここで問題が生じる。そもそもどういうジョブを行うか曖昧なので、仕事の成果についてははっきりと評価できない。そこで、「やる気」が「能力」として成果の代替値として用いられがちになってくるというのは論理的である。 
 その度合いが甚だしくなれば、やってる感だけは出すのが上手い社員も当然出てくるだろう。
 これだけでも、単なる労働契約の形態の違いではなく、会社のあり方、ビジネスマンの人生設計、価値観、社会の構造までかかわる要素を含むことがよく分かる。
 会社に属するのが大事であるのであれば、仕事の成果は二の次となるマインドが醸成されてもおかしくはない。しかし、高度成長期には社会全体が底上げされていったから落ちこぼれなくみんなで豊かになって行こうという仕組みがそれなりに上手く廻っていたのだろう。しかし、日本社会および経済が他の諸国と比べて相対的に下り坂になるにつれて、そういう暢気なことはいっていられなくなって来ている。会社の売り買いは当たり前になって来たし、生産性を高めるために、社員は余裕なく働かざるを得なくなっている。にも拘わらず仕組みはあまり変わらないから、善し悪しは別としても利益の追求に対して目的合理的な西欧諸国の雇用形態にかなわないのである。それをなし崩しに変えていこうとすれば弱い立場の労働者にしわ寄せが及ぶのは目に見えている。
   
 以上のように、大枠の私の理解を述べただけでも、日本の労働形態が歴史的、経済的に錯綜した状況のなかにある上に、グローバル化による強い圧力にも晒され、にっちもさっちもいかない状況におかれていることが感じられる。
 単にジョブ型雇用契約を導入すれば解決するような問題とはとても思えない。
 社会全体を見渡し、タイムスパンをそれなりに考えた上での将来構想を明確にし、国民的議論・理解の下に、多様な改革を手順をよく考えて進めて行くことがが必須であると感じた一冊であった。

 

 

感想文 「教育は何を評価してきたのか」  本田由紀著  岩波新書

11月15日に感想をアップした「日本ってどんな国」を著した本田由紀教授の本である。
 冒頭、上記の著書と同じように、社会学的な手法で日本人のスキル、意識についての分析が述べられる。
  それによれば、日本人は、読解力、数学、科学と言った分野だけでなく、他者との協力による問題解決と言ったより柔軟な対応が求められるスキルについても世界各国のなかで高い水準にある。(今月発表された最新のOECDの学力テスト結果でも引き続き高いランクを維持したようだ)
 それ自体は喜ばしい事に思えるが、日本人の高い能力は残念ながら高い水準の賃金によって報われてはいない。GDPとの関係を見ても、日本は、スキルの高さが国民経済の豊かさを生み出しているとはいいにくい。
 結論として、著者によれば、日本では、高い一般的スキルがありながら、それが経済的活力や社会の平等化にもつながっておらず、一方で人々の自己否定や、不安の度合いが高い、という異常さがある。
 これらは、あまりに「逆機能的」であるためにその原因が解明されるべきであるが、著者の回答は次のようなものである。
 日本における人間の望ましさに関する考え方は、歴史的な軌跡のなかで「垂直的序列化」と「水平的画一化」の組み合わせを特徴とする独特な構造を展開・強化・深化してきた。
 私なりの雑なまとめであるが、前者は能力(学力、生きる力、人間力)による序列化、後者は、態度や資質を不可分な言葉として、特定の振る舞い方や考え方を全体に要請する圧力の事とのことである。
 本書は、そのような二つの軸が戦後の日本の教育行政、あるいは政治の場においてどのように深化発展していったかを様々な資料に基づいて実証的に丹念に跡づけていったものであり、さらに著者なりの改善策を記したものである。
 新書としては、かなり学術的なものにも思えて、私にはなかなか難解であった。
 一方で、著者が案出した上記の二つのタームについては、深く頷くところがあった。
 以下それについて記しておきたい。

 1.垂直的序列化は、偏差値を考えれば分かりやすい。しかし、単に学科テストをやって、点数を偏差値化する、と言うだけではなく、それが学力という名のもとに、あたかも人間に内在する全的な能力のように扱われてくるモメントが発生するのは、私も実感しているところだ。偏差値の弊害は使用されはじめた初期から言われていることだが、何しろ便利なので使い続けられ、その応用範囲は拡がり続けている。
 さらに、著者は、単に学力にとどまらず、その射程が生きる力、人間力、などという言葉で括られるものまで拡げられ、深化していると分析している。(それを、単なるメリトクラシーと区別してハイパーメリトクラシーと呼んでいる)以前はテストの点で並べられているだけだったのが、「人間力」で並べられる訳である。
 では、人間力とは何か。深く考えるのは無意味である。労働経済学者の濱口桂一郎は、その著書で、上司が「人間力」などというどうとでもなる価値基準で部下を評価する馬鹿らしさを指摘している。長年サラリーマンを続け、評価する側とされる側両方を経験した私の実感としても、「人間力」などというものを持ち出したら、客観的な評価基準にはなり得ず、上司が評価という形を付けるだけの道具にしかならないと考える。
 もう一つ。少し前、高名な女優である長澤まさみ氏が、珍しくバラエティ番組に出て、どんな男性が好みかと問われ、「人間力のある人」と答えたそうだ。
 これは、立場と場を心得た頭の良い回答である。そして、ここには人間力という言葉の特質がよく現れている。聞く側が中身をどうとでも考えられる言葉であるし、発言した側がどういう内容も盛り込める、どういう言い逃れもできる言葉なのだ。と言う事は、実は内容がないということだ。美男なのか、背が高いのか、高学歴なのか、金持ちなのか、性格が明るいのか、実際彼女がどんな人が好みなのか知らないが、具体性は一切なく、当たり障りのない意味不明の答ができるわけだ。本心を明かすことのリスクがある女優の、バラエティ番組での答なら満点だ。
 しかし、それが教育の場や、企業の評価の場に持ち込まれたらどうなるか。評価する側の恣意的な判断が暴力的に行われることが目に見えている。なぜなら、どんな内容も盛り込める言葉だからだ。世情を騒がせた電通事件において、過酷な労働条件のもと自殺に追い込まれた女性社員が、上司から「女子力」がないと言われていたことが思い起こされる。言葉は違うが同工異曲である。
 能力主義は普通、メリトクラシーの訳語として使われている。しかし、著者は日本的な能力主義は、評価基準のはっきりした欧米流のメリトクラシーとは異なるとしている。その点は同意する。元々組織の中で無理難題を何とかこなす社員が優れた社員として評価される度合いが高い組織風土、社会風土であるから、客観的な基準は馴染みにくいのだ。逆に言えば、誰に何を命令しようが、なんとか頑張って力を発揮しようとするメンタリティが日本の会社の強みでもあった。
 ところが、様々な職種において高度な知識とスキルが必要となった現代において、専門教育のない素人の頑張りではパフォーマンスが低く、また企業側も激しい競争のなかで社員を家族的に囲み込めなくなった事によって、社員のモチベーション低下(はやりのエンゲージメントと言う言葉を使っても良いが)を招いており、日本的な組織風土はその強みが希薄化し続けている、と私は考える。
 寄り道になるが、先日感想をアップしたウォーラーステインの本の一節を思い出した。ウォーラーステインは、資本主義の発達と共にメリトクラシーが言われるようになったが、人間の能力をきちんと測ることなどできないし、すべての労働者について適用することもないから、要するに貴族主義だ、と喝破している。本書とは分析対象とされているもの、手法、時間軸も違うが、メリトクラシーを考える上で、頭に入れておいてよい言葉だろう。

2.水平的画一化についてやはり私の体験を記しておく。
 数年前、勤め先で新人女子社員の受け入れ面談を行った。入社式直後に三名の大学出たての女子社員と会議室で向かい合った私は驚いた。三人が、色合いも、質感も、デザインも同じ服装をしていたからだ。
 私は三人が同じ大学か、知り合いか、あるいは内定者懇談会などで顔見知りになって示し合わせたのかと考えた。ところが、確認すると三人は大学も異なり、全く初対面であった。その三人が同じ服を着ていたなら、他の新人達も同様だったのだろう。
 まさに、水平的画一化のなせる技である。
 恐ろしいのは、同じ服を着なければならないなどと誰も指示していないし、ルールもないことである。にも拘わらずここまで強く、見えない基準に揃えるという圧力が掛かっているのだとまざまざと感じた出来事であった。

 この二つのモメント、特に近年深化しているハイパーメリトクラシーや、資質、態度への水平的画一化は、いったい誰にとって好ましいものなのか。
 私が感じるのは、管理者や上位者、相対的権力者にとって都合の良い統制のためのコストの掛からない制度、メンタリティがこれらのモメントによって強化され続けていると言う事だ。それが、「逆機能的」である事がこれほど明らかになっているのに、改善が遅々として進まない事の理由の一つであると思う。
 今、この圧力を受けて汲々としている人も、耐え抜いて、やがて管理する側の「オヤジ」になれば(*オヤジは権力者の謂いであって男とは限らない。コピーライト上野千鶴子) 喜々として権力を振るうのだろう。そのようなネガティブな循環が強化され続けているとすれば、改善への抵抗は凄まじいものになるのだろう。
 沈み続けているとは言え、曲がりなりにも文明国の一角を占め、未だに技術的にも経済的にもそれなりの存在感を持っているはずの日本が、実はこのようなネガティブな循環・深化に支えられているなら、暗澹とせざるを得ない。
 現代日本社会の負の構造とそのモメントについて、仮説であるとしても、理解のための明快な補助線を得られた本であった。

 

 

「諦念後」  小田嶋 隆著  亜紀書房

小田嶋氏は1956年生まれ、2022年6月に惜しくも病気のために世を去った。
私より数年年長であるが、ほぼ同世代と言うことになる。
 小田嶋氏が晩年(今となってはそう言わざるを得ないが)に日経ビジネスなどに連載していたエッセイ、また、twitterでの書き込みは、実に苦い現実認識がありながら、細部を穿った、ほかの書き手が定型の言い回しや文章構成で済ませてしまうところを敢えて裏の裏まで想像力を巡らせて書いていて、私は小田嶋氏のエッセイを見つけるといつも読むのが楽しみであった。
 また、小田嶋氏はテレビに出演することはまれであったと思うが次の事は書いておきたい。 
 第二次安倍政権下、2019年3月のタイムスタンプがついているが、自宅でランダムにTV録画しているなかに、たまたま部分的な録画が残っていたのだが、まだ国谷裕子氏が司会をしていたNHKのクローズアップ現代に出演した際、行政や政治で使われる言葉もポエム化しつつあり、それに抗するために「美しい日本」という言葉なら、どこが美しいのか面倒くさいやつだと思われても問い直さなくてはいけない、と言う趣旨の発言をしている。
 「美しい日本」という言葉はポエムだといっている訳だ。そのことは多くの人が同意するだろう。しかし、テレビで、はっきりポエムだとうけとられる文脈で発言したのだ。見ていて度胸があるなあ、と印象に残ったものだ。安倍政権全盛のあの雰囲気を覚えている人なら、テレビ局が忖度しまくりであったことは忘れてはいないだろう。そのなかでの言葉である。
 つまり、小田嶋 隆氏は、そういう人だったのだ。単なる反骨などと単純に言ってはいけない。コラムニストが吹けば飛ぶような存在である事はよくよく心得ている。しかし権力を持つもののずるさや抜け目なさ、狡猾さには人一倍敏感でおそらく自分でも嫌気がさすぐらいに、その手つきが見えてしまう。見えてしまうから不機嫌になりつつも書かなくてはならない。その際に、コラムニストとしての文体、形式に賭ける矜恃が怒りや無力感から彼を支えたのかも知れない。ありきたりの表現を選び、感受性にオブラートを掛け、同調していけばよほど楽であったに違いない。
 
 さて、本書「諦念後」についてである。雑誌連載を纏めたものとのことだが、途中入院もあり、遺作といっても良いのかも知れない。しかし、小田嶋節はさえにさえている。
 諦念とは、もちろんサラリーマンの定年に掛けているのである。仕事から離れた初老の男達が、手を出すようなこと、蕎麦打ちとか、ギターとかを実際に体験しながらこもごも感じたことなどを記した連作体験ルポルタージュ風エッセイであるのだが、当然ながら単なる体験記に終わるはずもなく、諦念という書き換えに暗示された以上の、苦く強烈な締めの文章がこれでもかと言うほどに続いている。
 例えば、冒頭の「そば打ち」の結末は次のように綴られる。
「打ったそばは、大変にうまかった。理由はおそらくいい汗をかいたからだ。・・・・
 老後で大切なのは単純作業に身を投じることだ。
 なんとも凡庸な教訓だが、凡庸でない教訓など信じるに値しない。なんとなれば、男がトシを取るということは、自分が積み上げてきた凡庸さと和解することだからだ。」
 と綴られる。
 青春の詩をうたったというサミュエル・ウルマンとは対極にある鋭い言葉だ。だが、サミュエル・ウルマン馬鹿と言う言葉があるように、サミュエル・ウルマンにすがる老人も、ナイーブな若さへの渇望に捉えられているとすれば、やはり小田嶋氏の言葉から逃れられないと言う事なのだろう。
 あるいは、脳梗塞で入院した体験を綴った文章の結末は次のようなものだ。
 「死ぬ事に関して特段の心構えは要らない。生きてさえいれば必ず死ねる。心配は無用だ。」
 老年に達した井上靖に、小林秀雄は、君もそろそろ死に支度をしなくてはね、と言ったそうだ。今思い出したが、晩年の井上靖は「美しく老いたい」と言っていたと思う。ちょっと曖昧な記憶であるが。(この「美しく老いたい」という言葉はかなり微妙な臭みを感じさせそうだが、井上靖なら、許せる気もする。)
 いずれにしろ、小田嶋氏の言葉は、死に支度も美しい老年も蹴っ飛ばしている。言われてみれば頷くしかないことである。また、「生きてさえいれば必ず死ねる」という言い回しは、しばしば現れる「生きてさえいれば、報われる(およびそのバリエーションの言い回し)。」の人生の知恵風、のコンテクストを借りながら肩透かしを食わせて見事である。
 改めて思うが、その通りである。誰でも必ず死ねるのである。死んでしまえば、後のことを心配しようがないのである。小林秀雄井上靖がなんだか美学に拘泥する姑息な老人に見えてくる。いや、それは私が生きると言うことの実相を知らなすぎる咎であろうけれど。
 ネタバレではあるけれど、結末だけ幾つか引用してしまったが、そこに至る文章もそれぞれに練られたものである。
 老年とは難しいものだ。確かに諦念後というのは、単なるしゃれではなくて自覚するべき事なのかも知れない。小田嶋氏は、コラムニストの骨法を守りながらも、実はずっと深くて遠い地点にまで射程を拡げてこれらの文章を綴っていたのかも知れない。
 合掌。

 

 

「The BEST 10分間ミステリー」  宝島社文庫

今年の3月に中山七里氏の「さよならドビュッシー」の感想をアップしている。デビュー作としてのレベルの高さを絶賛したのだが、欠点として人物描写の浅さを挙げている。 これは、執筆経験を積めば技術が高まるはずなので、習熟した中山氏の作品を読みたいと書店で探していたところ、この短編アンソロジーに作品が収録されており、購入した次第。
 中山氏の作品は 短編のアイデアとしてはどこかで読んだ気がするが、話の運び、背景の作り方、全体の雰囲気などには、手練れの作品という感想を持った。流行作家ならではの、良いアイデアを思いつけなくても、あるレベルは確保して作品は完成させるという実力を発揮したものと評価したい。

 さて、目的は中山氏の作品だったのだが、この本には40以上の短編が収録されており、私はそれなりに楽しく読んだ。
 なかでも私として良かった作品を以下に記す。
 1.抜け忍サドンデス  乾 緑郎
 短編の短さを生かして、一つの場面でのこれでもかというくらいのどんでん返しの繰り返しが笑い出してしまうほど心地良い。

 2.特約条項 第三条 安生 正
 私はゴルゴ13が好きである。中学生の時に初期ゴルゴ13を読んだ記憶が未だに残っている。銃器に関するマニアックな説明も、小説のギミックとして好みの一つである。そんな私にぴったりの短編。舞台設定、プロットも上々と言えるだろう。面白く読んだ。

 そのほかにも、短編として充分楽しめる作品がいくつもある。アイデア倒れと感じるものもないではなかったが一定の水準は保っている。一定の水準とは、商業誌に載せられるレベルのまとまりを保っているということである。

 そういうわけで、私は中山氏の作品以外も楽しんで読んだのだが、しばし考えてしまった。これだけの作品を書ける作家が、こんなに沢山いるのだということと、とは言え作家紹介のページを見ると、デビューして数作を書いて、以来さしたる執筆をしていない人も多いことである。上記1.2.の方は次々に作品を出版し一定のマーケットを確保しているのだろうが、多くの人は、数作書いて止めてしまったのかな、と言う印象を持った。
 創作は自分だけでできる世界であるが、それがビジネスとして成り立つかと言えば、自由主義経済にまともにさらされて、売れるものを中山氏のようにハイペースで書けなければ、消えていくしかない、と言う厳しい世界なのだろう。
 楽しくも勉強になった本であった。

 

 

「日本ってどんな国」 本田由紀著 ちくまプリマー新書

著者は東京大学大学院教育学研究科教授。 一般向けにも多数の著作を発表している、新聞にも度々登場する著名な学者である。
 この本は、日本の家族、ジェンダーや学校や、仕事や、友達などの有り様を、各種の国際比較が可能な調査、統計を駆使して社会学的な分析を行い論じたものである。
 敢えて一口でまとめれば、私たちが住むこの日本という国での生活は、かつては妥当したかも知れない「こういう社会の成り立ちをしているし、これからも変わらないよね」「こういう生き方なら幸せだよね、」「家族も、仕事も、友達も、こういうものだよね」という共同幻想的な有り様から加速度的に乖離しつつあり、私たちは抑圧的でストレスの高い、人間関係の希薄な、生産性の低い、見通しの悪い状態に陥りつつあるということらしい。
 それは、経済的側面で言えば、政府の度重なる成長戦略にも拘わらず、他の国に比べてGDPは伸びず相対的に順位が低下し、円は下落し、国債は積み上がり、社会保険料はうなぎ登りに高くなり、それでも国民の将来不安が消えず、見えない貧困家庭が増えていると言う現象にも現れているのだろう。
 にも拘わらず、私たちの社会における政策や、規範意識はかつて望ましいと思われたものからさして変わらず、その乖離が耐えがたく、取り繕えないほどになっている、ということかもしれない。
 私個人の思いとしては、政治家にしろ財界人にしろあるいは知識人にしろ、戦後まもなくの時期を生き抜いた人々には、まだしも時代錯誤にも悪にも人間的な実質があったように思えるが、世代を降るうちに、建前が形骸化し、言葉が内実を失い、下手くそなコメディアンのファルスのようにしか見えなくなってしまった。(三角大福の時代を知る年配のノスタルジーだと言われれば、否定する気はないが)
 サラリーマンを長くやった身から言えば、仕事を高度化していけば行くほど、人間生活の内実がそこはかとなく空洞化していくような思いを禁じ得なかったのも事実だ。

 著者は、皆が息苦しい思いをしながら、でもなんとなくぎこちない笑顔を浮かべてお互いを見合いながら沈んでいく社会に業を煮やしている(時にその思いがほとばしっている文章があると感じられた)が、まず社会の実態をしっかり見つめることからはじめるべきだ、見ればすでに、例えば経済統計が国民経済の衰勢を如実に表しているように、家族やジェンダーや人間関係や、仕事についてもまるで違った姿が見えてくるだろう、そうすれば、少なくとも当て外れの、自己保身的な、近視眼的な、場当たり的対策ではない対策も少しは考えられるのではないかと主張している。
 まず現実をよく認識することが重要という点は全く同感。最も、現代は各人各様の現実認識がそれぞれリアリティを認められて来ているというややこしいところが有るのだが、その点はここでは論じない。
 個々の論点で著者に同意するかどうかは別として、素人には統計資料をアカデミックに分析する事はできない点ので注意しなければいけないが、生データのリファレンスとしても大いに使える本であり、広い視点を持って、自分の立ち位置を確認するには良い本であると考える。